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日本人の物語01696【戦国/東国/長享の乱】長享三戦

    キャラの立っているヒーローや悪役がいないと、戦闘の描写はなんとも退屈になりがちです。太田道灌がいなくなり、ヒーロー不在になってしまいましたね。

     長享の乱が始まると、関東のあちこちで武力衝突が起こり始めました。
     長享元(1487)年12月14日には、扇谷方に属する長尾蔵人(ながおくらんど)と佐野直綱(さのただつな)が、山内方の山上城(群馬県桐生市)を攻めましたが敗退しました。
     長享2(1488)年には、「長享三戦」と呼ばれる3つの戦いが起こります。順に説明していきましょう。
     第一戦は、2月5日に起こった実蒔原(さねまきはら:神奈川県伊勢原市)の戦いです。山内上杉顕定が、扇谷家の本拠の一つである糟屋(神奈川県伊勢原市)に迫り、その近傍の実蒔原で合戦となったものです。扇谷上杉定正は河越城から僅か200騎で駆けつけ、千騎の山内軍を破ったといわれています。(数については誇張があるかもしれません。)
     しかし、その直後の七沢城(神奈川県厚木市)の戦いでは山内方が逆転勝利を収めました。七沢城主にして定正の弟である扇谷上杉朝昌(おうぎがやつうえすぎともまさ)が、山内軍が敗走するのを追撃しようとして、友軍の到着も待たずに急いで城から出て戦ってしまったことが敗因でした。こうして第一戦は両軍の痛み分けで終わりました。
     その後、3月には山上城の支城である葛塚城(かつらづかじょう:群馬県前橋市)を巡る両上杉の激突がありました。扇谷方の佐野直綱が山内方の赤堀政綱(あかぼりまさつな)を攻めたものの、多数の死傷者を出し敗走します。敗れた佐野はこれを契機に山内方に寝返りました。
     5月には越後上杉房定が自ら出陣し、小田原城・七沢城を攻撃しています。
     第二戦は、6月18日の須賀谷原(埼玉県嵐山町)の戦いです。山内上杉顕定が河越城の扇谷上杉定正を攻撃しようとしたところ、その途中で迎撃されて敗北しました。
     山内の苦境を救うべく、9月1日には三浦道含・道寸父子が山内方に参陣してきました。
     第三戦は、11月15日の高見原(埼玉県小川町)の戦いです。扇谷上杉定正が鉢形城(埼玉県寄居町)の山内上杉顕定を攻撃しようとしたところ、その途中で迎撃され、扇谷方が辛勝したものの双方大きな被害を受けました。
     これら長享三戦の合間に、越後上杉家で事件がありました。3月24日、白井城に滞在していた越後上杉家当主・定昌が自殺したのです。原因は分かっていませんが、腹違いの弟・房能(ふさよし:1474~1507)との家督争いが原因かもしれません。
     また、8月3日には太田道灌の父・道真が78歳で死去しました。まだ生きていたのかと驚きです。道灌が殺害されたとき、父の道真がそれをどう受け止めたのか気になるところですが、残念ながら道真の晩年の動向は何も分かっていません。

    太田家は道真・道灌がいなくなった後は、いまいち目立つことができず埋没していきます。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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