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日本人の物語00277【平安前期】60代醍醐天皇

     寛平9(897)年7月3日。30歳の宇多天皇は譲位し、子の敦仁親王(あつひとしんのう:885~930)が12歳で即位しました。醍醐天皇です。
     宇多天皇は譲位時の詔の中で、「政は全て時平と道真を通すように」と述べています。大納言・藤原時平と権中納言・菅原道真の2名を特に信頼している……ように見えますが、宇多天皇は阿衡の紛議で揉めた藤原基経を嫌っていましたから、基経の長男である時平に対しても、よい印象を持っていなかったものと思われます。道真だけを贔屓することを憚って、一応時平も入れておいたということではないでしょうか。
     さて、この詔に対して他の公卿たちは反発しました。
    「時平と道真以外は政に関与できないという趣旨か」
    と憤り、出勤を拒否したのです。
     時平と道真は、やむなく全ての政務を二人だけで取り仕切ることとなりました。相当大変だったと思いますが、その年は何とか二人で乗り切ったようです。少なくともこの段階では、時平と道真の関係は良好だったようですね。
     寛平10(898)年9月18日。道真は宇多上皇に対し、
    「去年の詔の趣旨を公卿らに説明していただきたい」
    と願い出ました。宇多上皇が勅を出して説明することで、1年にも渡ったボイコットはようやく収束しました。
     昌泰2(899)年2月14日。藤原時平が左大臣に、菅原道真が右大臣に、それぞれ就任しました。左大臣の方が右大臣より格上です。太政大臣ポストが空席ですから、時平がトップ、道真がナンバー2ということになります。
     下級貴族の出身である道真がナンバー2まで上り詰めるのは異例のことで、やはり宇多上皇の覚えがめでたかったためでしょう。
     この頃の二人の働きぶりについて、大鏡にこんなエピソードが載っています。
     左大臣時平にはひどい笑い癖がありました。あるとき、時平が反対しそうな決裁事項があり、書記官が一計を案じました。時平への説明の途中で、わざと放屁したのです。すると時平は笑い転げてしまい、
    「今日はもう仕事にならない。右大臣に任せます」
    と言って全てを道真に委ね、そのおかげで決裁が通ったというのです。
     時平といえば後に道真を左遷したことで悪役のイメージが強いですが、なかなか個性の強い面白い人物だったようですね。
     しかし、時平が情に任せた裁決を行い、それに対して道真が異議を主張することが多くなり、その結果二人は徐々に対立していったとも記録されています。具体的にどのような対立だったのかは伝えられていませんが、この対立が、この後の道真左遷へとつながっていくことになります。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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