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日本人の物語00289【平安中期】土佐日記 帰洛

     『土佐日記』のもう1つ特筆すべき点は、海賊を恐れる記述がたびたび見られることです。
     承平5(935)年。この時期に瀬戸内では海賊たちが行き交う船から略奪を重ねていました。特に元土佐守の乗る船ほど良い獲物はないでしょう。
    「海賊報いせむといふなることを思ふ」(海賊が報復してくるかもしれないと思う)
    という記述がありますから、土佐守であった貫之は海賊の恨みを買う何らかの施策を打っていたのでしょう。ちなみに、瀬戸内を中心に海賊たちを率いた藤原純友が朝廷への反乱を起こすのはここから4年後のことです。
     『土佐日記』の最終章では、ようやく到着した京の実家の惨状が語られています。隣人に留守を任せていつも贈り物を欠かさず届けていたのに、庭も家の中も荒れ果てていたといいます。貫之は
    「家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり」
    (家だけではなくて、預かっていた人の心も荒れてしまったのだなあ)
    と述べ、家人たちは「こんなことがあるか」と抗議しようとしますが、貫之はそれを制止して、
    「志はせむ」(とりあえずお礼だけはしよう)
    と言います。珍しく貫之の常識人らしい一面が窺えます。
     さて、土佐から戻った後の貫之は、庇護者を失ったゆえか大した官職には就けませんでした。天慶3(940)年3月に玄蕃頭、天慶8(945)年3月に木工権頭(もくごんのかみ)という宮殿造営を担当する役所のナンバー2に任官しましたが、さほど重要な役職でもなく、『古今和歌集』の編纂を命じられた頃に比べると不遇の晩年といえるかもしれません。
     そして天慶8(945)年5月、貫之はひっそりと70年あまりの生涯を終えました。辞世の歌は晩年の不遇さをしのばせる歌です。
    「手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」
     手ですくった水に映っている月の影のように、はかない世の中を嘆いています。
     さて、貫之の最も有名な歌といえば百人一首に選ばれている歌でしょう。貫之が長谷寺(奈良県桜井市)に参詣した際に、昔なじみの宿の主人から「最近、全然来てくれないですね」と言われ、梅の枝を折って手渡しながら詠んだというものです。
    「人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
    (あなたの気持ちが変わってしまったのかどうかは、さあ、どうだか分かりませんが、この古都奈良では、梅の花の匂いが昔と変わらず匂ってきて、私を迎えてくれますね)
     たった31文字の中で移ろいゆくものと変わらないものを対比的に描いており、宮廷歌人・貫之の面目躍如たる名歌だと思います。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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