
日本人の物語01725【戦国/西国/京兆専制】不安な新政権
足利義材あらため、今後は足利義稙と呼びます。しかし「稙」という字は常用漢字外だし、義稙(とその偏諱を受けた人たち)以外に見たことがない字ですね。
さて、天下は
・細川政元が擁立した11代将軍足利義澄(就任はまだですが)
・越中に出奔してなおも自らが正当な将軍と主張している10代将軍義材
に二分されました。これ以降、義材は「義尹(よしただ)」、次いで「義稙(よしたね)」と改名しますが、ややこしいので本章以降は「義稙」と呼ぶことで統一します。
明応2(1493)年9月下旬。政元は越中に軍勢を送って義稙方を叩こうとしましたが、「生還者は一人もいなかった」と(誇張でしょうが)記録されるほどの大敗を喫しました。義稙を擁立する越中守護代・神保長誠の軍勢はなかなかの強敵だったようです。
政元は義稙打倒を後回しにして、まず足元を固めようと考えました。10月には義稙が任命した近江守護・六角政堯を解任し、六角氏庶流の山内就綱(やまうちなりつな)を充てます。越中にいる義稙が京に攻め込んでくるとしたら、その通り道は近江ですから、近江守護には自分に忠実な人間を配置したかったのでしょう。
しかし、このいかにも軽量級の人事は近江情勢を混乱させました。近江といえば六角政堯と対立する六角高頼が何度も反乱を起こしており、その高頼の討伐が最優先課題のはずでしたが、どうも山内就綱は頼りないのです。
明応3(1494)年8月。幕府は三度目の六角高頼討伐を開始しました。そのきっかけは、
「高頼は実子がなかったため、美濃守護の土岐成頼の息子・美濃法師(みのほうし:本名不明)を養子に迎えていたが、その後で実子・氏綱(うじつな:1492~1518)が産まれたため美濃法師を毒殺した」
との噂が立ったことでした。この噂に反応した延暦寺は土岐成頼に仇討ちを薦めつつ、幕府に六角高頼討伐を要求したのです。
将軍就任を目前に控えた義澄は、山内就綱に延暦寺とともに出陣するよう命令しました。
当初は延暦寺・山内方が優勢でしたが、六角高頼方を美濃の斎藤妙純が支援し始めると形勢が逆転し、山内方は大敗しました。結局六角高頼は赦免され、この討伐戦は幕府の権威を低下させただけでした。
幕府軍が敗れたとの知らせに、越中の義稙たちは沸き立ちました。9月21日、義稙はこの勢いで京に攻め込もうとばかりに神保邸で足利義澄・細川政元打倒の旗揚げを行いましたが、意外にも軍勢はなかなか集まりません。どうも諸将は義稙・義澄のいずれの味方をすべきか、様子見しているようです。
京では「実は畠山政長は生きていて越中にいるらしい」などの怪情報が飛び交い、義澄政権は短命に終わるのでは、との声も聞こえてきました。義澄は不安を感じたのか、
「朝廷内に越中の義稙に内通している者がいるので討伐したい」
などと言い出し、朝廷を慌てさせました。実際に内通者がいたかどうかは定かではなく、その追及は行われませんでした。
義澄も若干小物感がありますね。政元のせいでなかなか手腕を発揮できなかった人なのでしょう。