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日本人の物語00206【奈良】平城京遷都

     まずは平城京が遷都されるところから見ていきましょう。
     元明天皇は元々草壁皇子の后でしたが、夫と息子に先立たれています。その草壁皇子と元明天皇の間には、1男2女がいました。
    ・氷高内親王(ひだかないしんのう:後の元正天皇:680~748)
    ・文武天皇(683~707)(故人)
    ・吉備内親王(きびないしんのう:686?~729)
     そしてこの時代、政治権力の頂点にいたのは藤原不比等でした。藤原不比等は、鎌足の次男です。和銅元(708)年に右大臣に就任し、養老4(720)年に没するまでその地位にありました。その不比等が元明天皇の信頼を得るために使った手段は、天皇の側近である県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ:665?~733)と再婚するというものでした。
     県犬養三千代は、小豪族である県犬養氏の出身です。最初は美努王(みぬおう:?~708)という皇族と結婚して2男1女を産みました。その後、県犬養三千代は美努王と離婚し、独り身になっていました。不比等はその県犬養三千代と再婚し、一女をもうけます。その一女が光明子(こうみょうし:701~760)です。後の光明皇后ですね。
     その県犬養三千代は、和銅元(708)年に元明天皇から「橘(たちばな)」の姓を与えられ、橘三千代と改名しました。後に「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と並び称されることとなる橘氏はここに発足するのです。
     和銅3(710)年3月10日。元明天皇は平城京(奈良県奈良市)に遷都します。持統天皇が築いた藤原京を捨てて、新天地へ引っ越すことにしたのです。このとき出した詔には、
    「私自身は不要だと思うが、周囲の者が薦めるので従うことにする」
    との記載があります。「こんなことをよく書けるなあ」と嘆息してしまいます。今の時代、内閣総理大臣が「不要だと思うけどやります」などと発言したら大問題になると思うのですが。
     おそらく、元明天皇自身は乗り気でなかったのに、藤原不比等が主張したために遷都することとなったのでしょう。不比等は帰国した遣唐使などから唐の都・長安の様子を聞き、
    「藤原京ではまだまだ不十分だ。唐に匹敵するものを作りたい」
    と考えたのではないでしょうか。
     また、唐のように市中に重臣たちが居住する首都を作りたかったのに、「藤原京へは飛鳥からでも十分通える」といって引越しをしなかった重臣が多かったことから、やむなく飛鳥からは通えない距離の平城京を選んだという説もあります。確かに、Google地図で飛鳥から藤原京までの距離を調べると「車で10分」なのに対し、飛鳥から平城京までの距離を調べると「車で40分」と表示されます。通うのは辛そうですね。
     さて、平城京遷都により、藤原氏の氏寺(飛鳥寺)もまた平城京に移され、名称も変わりました。現在、奈良公園の中にあり修学旅行の定番として知られる興福寺です。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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