
日本人の物語01736【戦国/西国/京兆専制】初のおんな家長
腰の次は首が痛いです。最近、全体的に筋肉痛がひどいですね。ストレッチを習慣化した方が良いかもです。
朝廷の次は幕府の状況を見ていきましょう。
足利義澄・細川政元の新政権は今もなお不安要素を抱えています。明応4(1495)年3月には讃岐国で反乱が起こり、東讃岐守護代・安富元家が自ら討伐に行くと志願しましたが、細川政元はこれを許しませんでした。翌年8月には山城国で起こった遊佐氏の反乱に赤沢朝経(あかざわともつね:1451~1507)を送り込んで平定しているのに、なぜ今回は安富の讃岐派遣を渋ったのか不明ですが、安富が勝手に讃岐で勢力を拡大しては困ると思ったのかもしれません。安富は激怒して政元に鋭く迫ったと噂されており、どうも細川家中も揉めているようです。
明応5(1496)年4月25日には、応仁の乱を駆け抜けた武将・赤松政則が死去しました。
赤松政則といえば、嘉吉の乱で滅亡寸前となった赤松家を再興した人物でしたが、その晩年には家臣・浦上則宗と対立し、徐々にその権限を奪われていました。政則は細川政元の姉・めし(洞松院)を娶ったものの女子しか産まれず、この女子に赤松家庶流の赤松義村(あかまつよしむら:?~1521)を婿養子に迎え、3ヶ国(播磨・美作・備前)守護を継がせることとなりました。
ちなみにこの女子は「小めし(こめし)」と呼ばれています。「めし」の娘だから「小めし」とはひどく安直なネーミングですね。
赤松義村が何歳で家督を継いだかははっきりしませんが、かなり幼かったようです。また、実力者の浦上則宗も68歳と高齢で、その息子・則景(のりかげ:1453~1485)も山名との片島合戦(01658回)で戦死しており、権力者不在の状況でした。
そこで赤松家の家長としての仕事を行ったのが、義村の義母・めしでした。事実、洞松院が「つほね(局)」と署名した黒印状が現存しており、洞松院は家長権限を行使して各種決裁を行っていたことが分かっています。
戦国時代の「おんな城主」「おんな家長」の例は非常に少なく話題性があります。ざっと挙げてみると赤松家の洞松院のほかに、今川家の寿桂尼、井伊家の井伊直虎(大河ドラマの主人公となり話題になりましたが、男性説も有力視されています)、飯尾家のお田鶴の方、織田家のおつやの方、立花家の立花誾千代、二階堂家の二階堂阿南、古河公方家の足利氏姫、豊臣家の淀殿(いずれも今後取り上げる予定)と計9人いますが、全国千以上ある戦国武将の中でこれだけしか例がないのですから、大変珍しいといえます。その「おんな家長」の最初の事例こそが赤松家の洞松院と考えられています。花押の代わりに印判が用いられているのも先進的です。
赤松家で強い権力を持った女性が誕生した一方で、幕政に大きな影響を与えた人物が世を去りました。日野富子です。富子は5月17日に容態を急変させ、5月20日に死去しました。67歳でした。
「大河ドラマを時代順に全部見る」企画を一人で進めており、次は「おんな城主直虎」です。この連載で直虎の話を取り上げる前には見ておこうと思います。