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日本人の物語01735【戦国/西国/京兆専制】軽かった処分

    最近体重の増加がひどく、カロリー計算した方が良さそうです。面倒でこれまで渋っていたのですが。この連載も将来的には寿命との戦いになるかもしれませんしね。

     告発状を受け、勅使の白川忠富(しらかわただとみ:1428~1510)と中御門宣胤が九条邸に派遣され、取り調べが行われることとなりました。明応5(1496)年2月5日に裁判を行い、2月25日に判決を下すというスケジュールも決まりました。
     ところがその後、九条家の処分をめぐる議論はひどく紛糾しました。2月5日の裁判では後土御門天皇の臨席のもと、まずは甘露寺親長が
    「事件を主導した息子の尚経のみ、解官処分としてはどうか」
    との意見を述べ、勧修寺教秀(かじゅうじのりひで:1426~1496)がこれに同意したものの、この議論の様子を後から聞いた三条西実隆が
    「摂関家と他の公家を同格に扱っては、朝廷の秩序の乱れとならないか(つまり解官処分は重すぎるのではないか)」
    と反論し始め、関白・近衛尚通(このえひさみち:1472~1544)も実隆と同様の意見を述べたのです。
     現代人の我々からみると、人を殺しておいて解官処分で済むとはずいぶん軽い判決ですが、当時は解官は相当に重いものとみられていました。一般の公家に対する解官は前例があるものの、摂関家に対する解官は例がありません。五摂家に属する近衛尚通も三条西実隆も、摂関家を特別視する旧例を徹底することで自らの地位を保証しようと考えたのでしょう。時折しも下剋上がはびこる戦国時代の始期でしたから、武家で数多く起こっているような下剋上を公家の世界では絶対に起こさせまい、という危機感もあったかもしれません。
     さらに九条政基もまた、白川忠富や中御門宣胤に
    「唐橋在数は家司として不義怠慢であった上、摂関家、ひいては公家の秩序を覆そうとする態度があった。この朝敵を倒すことは朝廷を救うことと同義であった」
    などと開き直る書簡を送り付け、自己弁護に徹しました。
     予定されていた2月25日の判決は延期となり、その後も議論が続けられましたが、最終的には太政大臣・一条冬良(いちじょうふゆら:1464~1514)の意見をそのまま採用し、閏2月3日付けで「勅勘による出仕停止」という緩やかな処分が下されました。
     この処分について中御門宣胤はひどく不満を持ち、これ以降九条家との交際を絶つようになりました。九条政基も都に居づらくなった上、保有する日根荘が押領されそうになったため文亀元(1501)年3月には日根荘に下向し、そこに住み始めました。
     一方、政基の次男である澄之を養子にもらっていた細川政元は、この不祥事には何ら反応しませんでした。文亀2(1502)年9月には澄之に丹波守護を与えるなど、むしろ優遇しています。いかにも政元らしい態度です。

    戦国時代に詳しいと自負する人でも、戦国初期は驚くほど知らないことだらけではないでしょうか。そうした「穴」を埋めるための連載になれば幸いです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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