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日本人の物語01730【戦国/西国/京兆専制】船田合戦 再入国

    石丸のような男に、なんと細川政元が味方してくれます。といっても文書を出すだけですが。

     石丸利光が美濃から近江に逃亡した後も、尾張では船田合戦に介入した岩倉織田と清洲織田の戦いが続いていました。
     清洲織田家では、当主の敏定が陣中で病没したばかりでしたが、その長男の寛定(とおさだ:?~1495)が岩倉織田家の妨害を突破し、どうにか美濃に入り込みました。しかし明応4(1495)年9月7日に斎藤妙純方との戦いで戦死してしまいます。
     当主の病死から僅か2ヶ月後にその長男まで戦死してしまったわけで、清洲織田家の当主は次男の寛村(とおむら)となりました。明応5(1496)年3月23日に寛村は斎藤妙純と戦い、双方大量の戦死者を出しましたが決着がつきません。
     この戦いの直後、清洲織田寛村は岩倉織田寛広と(つまりその裏にいる斎藤妙純と)和睦しました。そもそも紛争当事者の石丸が逃亡しているのに織田だけが戦い続け、大きな犠牲を払っていることが馬鹿らしくなったのかもしれません。
     ただ、石丸利光も逃げ回っているだけではありませんでした。その頃石丸は近江で味方をかき集めるべく運動を続けていたのです。
     石丸が幕府の実質的最高権力者である細川政元に泣きついたところ、4月初旬に政元は渋々といった具合に動きました。このとき政元が下した命令は、なんと「石丸を支援せよ」という六角高頼宛てのものでした。旧西軍勢力である斎藤妙純を、これまた旧西軍勢力で斎藤家と懇意にあるはずの六角高頼に討伐させるとは人を食ったような命令です。まあ、幕府としては高頼を赦免したばかりなので、ちゃんと命令を聞くかどうか試したかったのかもしれません。
     六角高頼は幕命ということでやむなく石丸支援に動いたものの、どうも本気で支援したようには思えません。石丸にとって力強い味方は現れませんでしたが、斎藤妙純討伐に幕府がお墨付きを与えたという点では意味があったかもしれません。
     やむなく石丸は自力で、旧東軍勢力で斎藤家に恨みを持っている武将を探し回ります。越前の朝倉などいろいろな勢力に声をかけましたが、どうにもなびいてくれません。というのも、越前の朝倉貞景は旧東軍ですから美濃斎藤家とは険悪だったはずですが、戦後に斎藤妙純の娘と結婚して同盟を組んでいたのです(01636回参照)。さすがに妙純は外交上手で、押さえるべき相手は既に押さえていたようです。
     結局、石丸への協力を約束してくれたのは北近江の京極政経くらいでした。
     石丸利光の美濃再入国をかけた戦いが始まりました。石丸軍は4千騎で伊勢から津島(愛知県津島市)を経て、竹ヶ鼻(岐阜県羽島市)へ進軍しました。その後、多芸庄(岐阜県養老町)の斎藤妙純の領地に放火して回りました。いよいよ宣戦布告というわけです。

    本当に文書をもらっただけで、あまり有利にはなっていないですね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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