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日本人の物語00793【鎌倉末期】分倍河原の戦い*

     幕府は小手指原と久米川の戦いに敗北したと聞き、新田軍を迎え討つべく北条泰家を大将とする10万もの大軍を派遣しました。北条泰家といえば高時の弟ですね。
     泰家らは分倍河原(東京都府中市)にて桜田貞国の軍勢と合流して数が膨れ上がりましたが、義貞はこのことを知らず、敵は自軍より少ないと思い込んでいました。
     元弘3/正慶2(1333)年5月15日。新田軍は分倍河原に布陣する幕府軍への総攻撃を開始しました。新田軍27万人、幕府軍15万人というもののいずれも誇張がある数でしょう。
     鎌倉からの援軍を得て士気の上がっていた幕府軍は、特に優れた射手を前に出して次々と矢を射かけました。これに圧倒された新田軍は本陣が崩れるほどの危機に瀕し、義貞自身は僅か600人の手勢とともに幕府軍の横腹を突くことで辛くも脱出できたという有様でした。新田軍は敗走して堀兼(埼玉県狭山市)まで退きました。
    「このとき、もし幕府軍が追撃を行っていたら、新田義貞の運命はここまでだったかもしれない」と太平記は指摘しています。確かに勢い付いた幕府軍に襲撃されれば義貞はひとたまりもなかったでしょう。
     しかし幕府軍は「敗残の新田勢は武蔵・上野の者が討つだろう」と思い、追撃をしませんでした。幕府は自らチャンスを失ってしまったのです。
     堀兼に引っ込んだ義貞は、このまま倒幕を諦めて退却することすら検討していました。しかしその日の夜、大多和義勝(おおたわよしかつ)が6千騎を引き連れて合流し、
    「勝ち負けは入れ替わるものです。明日また一戦しましょう」
    と申し向けたことから、義貞は再び戦意を取り戻しました。
     5月16日早朝。義勝を先鋒とする新田軍2万は分倍河原に一気に押し寄せました。新田軍はあらかじめ
    「大多和義勝が幕府軍に加勢に来るようだ」
    という虚偽の噂を流していたため、幕府軍は全く油断していました。そこに新田軍が奇襲を仕掛けたものですから、北条泰家以下全軍が壊滅的な被害を受けて敗走していきました。
     こうして分倍河原の戦いは、新田義貞の逆転勝利で幕を閉じました。鎌倉攻略戦の帰趨はここに定まったといえます。これ以降、幕府軍には次々と裏切る者が現れ、新田軍には次々と援軍が集まってくるようになるのです。
     さて現在、分倍河原といえば東京のベッドタウンとして知られていますね。分倍河原駅前のロータリーには騎馬姿の新田義貞像があり、その像は鎌倉の方向を睨んでいます。

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    分倍河原駅前の新田義貞像。令和8年6月30日撮影。
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    像の解説。令和8年6月30日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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