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日本人の物語01718【戦国/東国/長享の乱】立河原の戦い

    今川義元の母・寿桂尼が初登場です。徐々に大河ドラマの世界に近づいてきましたね。

     見てきたとおり、伊勢宗瑞のおかげで家督を手にした今川氏親は、宗瑞におんぶに抱っこともいえる状況でした。遠江・三河侵攻などは宗瑞の協力なしには実現しなかったでしょう。
     その今川氏親は、永正元(1504)年8月頃に婚約したようです。お相手は京の公家・中御門宣胤の次女でした。この縁談は恐らく母・北川殿の意図によるものでしょう。
     この次女の結婚時の名は分かっていませんが、夫を失って出家した後の寿桂尼(じゅけいに:?~1568)という名で知られています。後に今川氏輝(うじてる:1513~1536)・義元(よしもと:1519~1560)兄弟を産み、義元の死後に今川家を牽引した人物で「おんな大名」などと呼ばれています。
     北川殿が氏親を公家と結婚させたのには、京とのパイプを強くすることで官位や領地を得やすくするためでしょう。北川殿は文明19(1487)年1月の時点で娘(氏親の姉)を正親町三条実望に嫁がせていますし、氏親自身も三条西実隆から和歌と連歌の添削指導を受けています。氏親と三条西実隆の関係は長年に渡って続き、永正4(1507)年5月26日には実隆が氏親に伊勢物語を与えたとの記録もあります。
     氏親は新婚早々、関東情勢に否応なく巻き込まれていきます。永正元(1504)年8月21日に山内上杉顕定は仙波(埼玉県川越市)に布陣し、翌22日に扇谷上杉朝良の河越城を攻撃しました。追い詰められた朝良は当然に伊勢宗瑞に援軍を要請しますが、宗瑞が出陣するということは即ち甥っ子の今川氏親も協力を求められるということです。
     宗瑞は朝良の要請に応えるため9月6日に韮山を出発し、15日には益形山(神奈川県川崎市)に着陣しました。
     ところが同じ9月6日、山内上杉顕定もまた白子(埼玉県和光市)に移り、古河公方政氏の出陣を促していました。大軍同士のぶつかり合いになりそうです。
     宗瑞から指示を受けた今川氏親は、9月11日に駿府を出発しました。13日には朝比奈泰熙・福島助春(くしますけはる)といった家臣団も出陣したとの記録があります。
     9月15日に宗瑞は稲毛(神奈川県川崎市)に到着し、20日に氏親も同じ場所に到着し、合流しました。いよいよ山内上杉顕定+足利政氏VS扇谷上杉朝良+伊勢宗瑞+今川氏親の対決が始まります。
     9月27日。立河原(東京都立川市)に両軍が集まりました。朝の時点では霧が濃く、敵味方の区別がつかない状態のためお互いに手を出せませんでしたが、昼頃から霧が晴れて戦闘が始まりました。そして宗瑞軍の活躍により、山内は2千人近い死者を出して敗北しました。『妙法寺記』では死者4万人と記録され、さすがにそれは誇張でしょうが、山内方の大敗だったのは間違いありません。

    死者4万人だとしたら、関ヶ原の戦いを超える被害だったことになります。あり得ないですね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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