
日本人の物語01702【戦国/東国/長享の乱】鈴岡小笠原家滅亡
小笠原貞宗といえば漫画『逃げ上手の若君』の主要登場人物ですね。漫画内ではちゃんと主人公との礼法対決も描かれていました。
鈴岡小笠原政秀が周囲の反発を生み、大きく支持を失っていくのと平行して、めきめきと力をつけていたのが松尾小笠原定基でした。
定基は故実家(こじつか)として知られています。「故実家」とは有職故実、つまり公家・武家の儀式、制度、官職などの先例の研究家のことです。かつて南北朝時代の小笠原貞宗が「小笠原流礼法」と呼ばれる礼儀作法の形式を整えたことを紹介しましたが(00828回参照)、松尾小笠原定基もまたこうした慣習への理解に秀でていたのです。
小笠原流の有職故実への知見は同時代の人々に一目置かれ、例えば佐竹基房(さたけもとふさ)などは定基宛ての書状の中で
「恐れながら貴所の御事も、道の儀において候ては、日本の鏡にて御座候」
と褒めているほどです。小笠原家が3家に分裂して争っている最中にも、定基は有職故実の学習を怠らず、天下に知られるほどの実力を身につけていったのでしょう。
その定基が討って出ました。明応2(1493)年1月3日、松尾小笠原定基は鈴岡城の政秀を急襲してこれを陥落させ、翌4日に政秀を討ち取ってしまいます。
なお、この奇襲については異説もあります。「年頭の祝賀」と称して政秀を松尾城に誘い、その帰路に攻撃を加えたというのです。これでは戦闘というより暗殺であり、あまり褒められた戦法ではありません。
その後、鈴岡城から落ち延びた政秀の子・小笠原長貞(おがさわらながさだ:?~1493)もまた、名子熊(長野県飯田市)で追い詰められ自害し、かくして鈴岡小笠原家は滅亡しました。府中を陥落させて信濃守護を名乗り始めて最盛期を誇っていた頃から、僅か5年後の凋落でした。
結局、小笠原家に伝わる家伝文書も、鈴岡城周辺の領有権も、松尾小笠原定基の手に渡ることとなりました。我慢ならないのは、元々小笠原嫡流であった府中小笠原長朝です。
時折しも、政秀の未亡人からも府中小笠原長朝に支援要請がありました。この妻は下条氏出身だったため、長朝は下条氏を味方につけて松尾城に攻め込みます。
松尾小笠原定基は敗北し、田中城(長野県箕輪町)に逃れることとなりました。そこも危うくなると、今度は武田家を頼って甲斐国へ逃げ込みました。その後は隠遁に近い生活を送り、再び信濃に攻め込む元気はなかったようです。
このように、信濃守護を務める小笠原家は大規模な内紛を起こして力を弱めていきました。信濃国は国人衆たちの力で運営されるようになっていきました。
大河ドラマ『真田丸』など見ると、信濃の国人衆がいかにまとまりを欠いた実力者たちかがよく分かります。