
日本人の物語01697【戦国/東国/長享の乱】小野崎通綱の犠牲
最近、珍しい苗字の人と会うとその由来を検索するようになりました。どこかに同じ名前の地名があるケースが多いですね。
佐竹本家と山入家の百年戦争は
・上杉禅秀の乱: 足利持氏(←佐竹本家)VS犬懸上杉禅秀(←山入家)
・永享の乱: 足利持氏(←佐竹本家)VS山内上杉憲実(←山入家)
・享徳の乱: 足利成氏(←佐竹本家)VS山内上杉顕定(←山入家)
といった具合に、様々な戦乱の代理戦争として起こってきましたが、長享の乱においても「扇谷上杉氏(←佐竹本家)VS山内上杉氏(←山入家)」という代理戦争が発生しました。
佐竹家の内紛についてこれまでの流れを復習すると、
「佐竹義人の死後に長男の義俊が家督を継いだが、次男実定の子である義定が当主の座を狙い、佐竹氏庶流の山入祐義を味方につけた。義俊は刺客を送り込んで義定を殺害したが、その後に病死し、家督は義俊の子の義治に渡った」
という状況です。つまり「佐竹義治VS山入祐義」の戦いがなおも続いているのです。
文明17(1485)年7月には、大館城(福島県いわき市)の岩城親隆(いわきちかたか)の子・常隆(つねたか:?~1510)が常陸に侵攻し、佐竹家の領地である村松虚空蔵堂(茨城県東海村)を焼き討ちしました。佐竹義治は山入・岩城の双方と戦うことは不利になると考え、子の義舜(よしきよ:1470~1517)と岩城親隆の娘を結婚させることで岩城氏と和睦しました。義治はなかなかの策士です。
義治の晩年には、佐竹本家にとって最大の危機が到来しました。長享3(1489)年3月、山入家と組んだ伊達氏・白河結城氏・小山氏の連合軍が太田城(茨城県常陸太田市)に来襲したのです。多くの家臣が籠城策を具申しましたが、義治はジリジリとやられて滅亡するよりはあえて討って出ることを選びました。
佐竹方が明神坂(茨城県常陸太田市)で待ち構えていたところ、やって来た敵は予想以上の大軍で、佐竹軍一同はさすがに全滅を覚悟しました。すると重臣の小野崎通綱が、「降伏すると見せかけて奇襲する」という作戦を提案します。一同が固唾を呑んで見守っていると、小野崎通綱は主君・義治の扮装をして現れ、
「佐竹義治、敵の刃に倒れるよりは自害を選ぶ」
と叫び、なんと馬上で見事な切腹を遂げました。
大将たる義治が自刃したからには、戦はこれで終わりだとばかりに敵軍は「勝った勝った」と言って引き上げていきました。佐竹勢はそこを背後から襲撃し、大逆転勝利を収めました。
義治は、自ら犠牲になって佐竹家を救ってくれた小野崎通綱に報いるべく、その死地の里美村(茨城県常陸太田市)に薬師如来を建立するとともに、遺児の通老(みちおゆ)に対して石神(茨城県東海村)の領地を与えました。これにより、小野崎氏は「額田小野崎氏」「石神小野崎氏」に分かれたというのですが、どうも古文書を見るともっと前から小野崎氏は石神を治めているようにも見え、眉唾かもしれません。
日本にも百年続いた戦争があった、というのは雑学として使えるかもしれません。