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日本人の物語01737【戦国/西国/京兆専制】大友家乗っ取り工作

    雨が1ヶ月続いたり、警報級の雨かもと言われていたのが晴れたり、どうも変な天気です。

     ここで視点を九州に移します。
     豊後国の大友家では、大友政親・義右(よしすけ:1469~1496)父子がひどく対立していました。父の大友政親は少弐政資とともに大内家と戦ってきたわけですが、息子の義右はあろうことか大内家と結びつきを深めていたのです。
     大内家は大友家に何かと介入しています。例えば長享3(1489)年には日田(大分県日田市)を本拠とする日田親胤(ひたちかたね)が大友家に攻め入る「日田の乱」が起こりましたが、これは大内政弘がけしかけた可能性が濃厚です。恐らく義右は日田親胤と同様、大内からの切り崩し工作に乗ってしまい、父と対立するようになったのでしょう。
     明応5(1496)年5月3日。父子対立が火を噴き、子・義右が父・政親を筑前国に追放してしまいました。ところがその直後の5月27日に、義右が28歳の若さで死去してしまいます。大友家の記録では病死となっていますが、近衛政家の日記によると
    「父に毒殺されたらしい」
    との噂が流れたようです。この噂を聞いた大内義興は激怒して、大友政親討伐を指示しました。
     大友政親は豊後に帰国し、大内義興との戦いの指揮を執りましたが、悲劇に見舞われます。前線の立花山城(福岡県福岡市)に向かうべく豊後府中(大分県大分市)から船出したところ、なんと遭難して敵の大内家領の赤間関(山口県下関市)に漂着してしまい、6月10日に大内義興の命で殺害されてしまったのです。うっかり敵の領地に漂着するとは運がなさ過ぎます。
     大友家は宗家の父子双方を失ったわけですから、政親の弟・大友親治(おおともちかはる:1461~1524)が家督を継ぐほかありません。しかし家臣の市川親清(いちかわちかきよ:?~1496)・朽網繁貞(くたみしげさだ:?~1496)が猛反対し、「御所の辻合戦」と呼ばれる戦乱に発展しました。
     「御所の辻合戦」は両軍合わせて約500人が戦死する激しい戦いだったようですが、場所などの詳細が分かっていません。いずれにせよ、この戦いで大友親治は市川・朽網を葬ってどうにか当主となりました。
     こうして、大内家による大友家乗っ取り工作は失敗に終わりました。大友家の盟友たる少弐政資は攻勢に出ます。九州から大内勢力を一掃したいと考えた少弐が真っ先にターゲットとしたのは、大内方の原田興種(はらだおきたね)が守る高祖城(福岡県糸島市)でした。
     再び大内・少弐の戦いが始まろうとしています。

    私は九州戦国史に弱いため、いま本を読んで勉強中です。大河ドラマにならない地域はどうしても知識不足に陥りがちですね。別に大河ドラマで勉強しているわけではありませんが、大河ドラマがないと勉強のきっかけが得られない気がします。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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