メインコンテンツへスキップ
見出し画像

日本人の物語01042【南北朝中期】妖は徳に勝たず

    誤記というものには比較的敏感で、漢字変換ミスなどないように頑張っているつもりですが、先日一つ見つけてしまいました。7回は読み直してからアップするように心がけているんですがね・・・。

     後村上天皇が住吉で過ごし始めた3日目。つまり正平7(1352)年2月28日のこと。不思議な出来事がありました。
     勅使が後村上天皇から馬を賜ったので、幣(ぬさ)を献上したとき、風も吹いていないのに、玉垣の間にあった大きな松が中程から折れて南に向かって倒れたのです。ちなみに幣とは神への供え物のことで、菅原道真の歌「このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」にも登場するものです。
     驚いた勅使が松の木を調べてみましたが、伝奏の吉田宗房(よしだむねふさ)は
    「妖は徳に勝たず」
    と言って、さほど驚きませんでした。
    「怪しい災いがあろうとも、帝が徳をもって治めているわけだから大丈夫だ」
    ということでしょう。
     ところがこれを聞いていた伊達有雅(だてありまさ)が、
    「なんと呆れたことだ。『妖は徳に勝たず』とは、徳を行うことによって災いを除くことをいうのだ。今、帝にどのような徳があるというのか」
    と辛辣なことを述べました。なかなか大胆な物言いです。
     その夜、誰かがこの松を削って、ある歌を幹に書きつけました。
    「君が代の 短かるべき ためしには かねてぞ折れし 住吉の松」
     この歌は古歌の
    「君が代の 久しかるべき ためしにや 神も植ゑけむ 住吉の松」
    (陛下の治世はいつまでも続くと思われる。神が植えた住吉の松が今も残っているように)
    をもじったもので、松が折れたことで後村上天皇の治世が短くなることが予言されたというわけです。
     この松の木の一件を後村上天皇がどの程度気にかけたかは分かりませんが、ともかく天皇は住吉に18日間とどまり、閏2月15日に天王寺(大阪市天王寺区)へと向かいました。天王寺では、北畠顕能が伊賀・伊勢の軍勢3千騎を率いて合流して来ました。
     さらに後村上天皇は閏2月19日に八幡(京都府八幡市)に入り、徐々に京に近づいていきます。ここでも多くの兵が集まり、
    「まるで合戦の用意ではないか」
    と京の人々は噂し合いました。「正平の一統」によって南北朝は平和的に合体したはずなのに、また戦になるのかと人々は心配したのです。

    この記事が参加している募集

     
     
     
    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

    あなたへのおすすめ