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日本人の物語01733【戦国/西国/京兆専制】斎藤妙純頓死

    五連休に続いて土日も大雨でしたね。連休は台風の来ない季節に設けた方が観光業界のためには良いかもしれません。といっても、私自身はぎっくり腰で寝込んでいたので天候は関係なかったのですが。

     もう一つ、船田合戦の後日談をお話ししておきましょう。
     石丸に味方した六角高頼に対し、斎藤妙純は報復戦を開始しました。六角高頼からすると、幕府から命令を受けたから参加しただけなのにひどい逆恨みにあったものです。美濃の斎藤氏は妙椿の時代から農業生産力の高い近江国に関心を持ち、たびたび攻め入っていましたから、理由は何でも良くて単に侵略したかったのかもしれません。
     明応5(1496)年9月20日。斎藤妙純が近江に出陣しました。六角高頼は馬渕(滋賀県近江八幡市)で迎え討つべく布陣しましたが、どうも勝ち目がないと判断したようです。戦らしい戦もせず、六角方からいきなり和睦を持ちかけました。
     12月になって和睦が成立しました。和睦条件は明らかになっていませんが、六角方から斎藤方に何らかの手土産を渡したのでしょう。
     満足した妙純が撤収準備にかかっていた12月7日、近江国の農民たちが突如として斎藤軍に襲い掛かりました。全く戦闘を予期していなかった斎藤軍は大混乱に陥り、なんと千人もの死者を出す壊滅的被害を受けてしまいます。その中で、斎藤妙純は息子の利親(としちか:?~1496)とともに戦死しました。
     近江国の農民たちは、応仁の乱の頃から幾度となく美濃勢からの侵略を受け、農地を侵略されたことに怒っていました。また、当時の兵士たちは平時は農民として農作業にいそしみ、国主から駆り出されると戦闘をさせられる二重生活を強いられていました。つまり、素人たる農民がプロである兵士を破ったというわけではなく、近江軍も美濃軍も似たような農兵同士だったと思われます。
     そうだとしても、指揮官のいない烏合の衆たる農民軍団が、斎藤妙純ほどの戦上手が率いる正規軍をやっつけてしまうとはあまりに意外な出来事で、六角高頼の陰謀を疑わざるを得ません。もし六角の仕業だとすれば、勝ち目のない敵に対して見事な奇襲作戦で乗り切ったといえます。
     斎藤家の家督は次男の又四郎(またしろう:1482~1499)が相続したものの、妙椿・妙純ほどの存在感は発揮できず、斎藤家は徐々に埋没し、庶流の長井家にとって代わられるようになりました。
     その長井家の家臣が勢いに乗って長井家を乗っ取り、やがて主家の斎藤家を乗っ取り、「斎藤道三」と名乗って美濃国の国主に上り詰めるのですが、そのあたりの経緯を取り上げるのはまだまだ先になりそうです。

    そろそろ執筆を再開しないと貯金が底を尽きそうです。しかしなかなか時間が取れず・・・。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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