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日本人の物語00661【鎌倉中期】青砥藤綱の逸話*

     北条時頼が登用した青砥藤綱(あおとふじつな)という御家人について、ここで紹介しておきましょう。
     青砥藤綱は『吾妻鏡』の中で3つの細切れのエピソードで知られているだけの人物であり、その実像はよく分かっていません。
     1つ目は、時頼が藤綱を引付衆に任命しようとしたときの話です。時頼は鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢の中で
    「藤綱を召して引付衆に任じよ」
    とのお告げを聞きました。このお告げに従って時頼が藤綱を登用しようとすると、藤綱は
    「夢によって人を用いるのならば、夢によって人を斬ることもあり得るのではないですか。夢に従って行動するのはおやめなさい」
    と言って辞退しました。時頼はその賢明な返答を聞いて、藤綱をひどく気に入ったといいます。
     2つ目は、ある人が土地所有権をめぐって訴訟を起こしたときのことです。藤綱は一旦は引付衆を辞退したものの、その後、結局訴訟を切り盛りする何らかの役職に就いていたようです。
     被告が執権時頼だったため、奉行人のほとんどが時頼の権威を恐れて原告敗訴という判断をしました。ところが藤綱だけが時頼敗訴という判断をしました。詳細を調べてみると、確かに原告の主張が正しかったのです。時頼はますます藤綱を信頼するようになりました。
     藤綱は権威よりも道理を重んじる人間だったのです。
     3つ目が最も有名なエピソードです。
     藤綱は夜間、鎌倉を歩いていた際に滑川という川に銭10文を落としてしまいました。藤綱は従者に命じて、銭50文で松明を買って銭を探させました。
     人々は
    「10文を探すのに50文を使ったのでは、かえって損をしているではないか」
    と嘲笑しましたが、藤綱は
    「10文を失えば、天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人の利益となるではないか」
    と答えたというのです。
     確かに当時貨幣の絶対数は少なく、貴重なものでした。川に落とした10文が見つからなければ日本経済全体に対する損失になるのに対し、松明を買うのに使った50文は経済を回すのに役立つわけで、藤綱の考えはあくまで利他的であったといえるでしょう。
     青砥藤綱が10文を落としたとされる橋は、現在鎌倉の宝戒寺の傍にあり、鎌倉青年団による石碑が建てられています。

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    青砥藤綱が銭を落としたとされる東勝寺橋。鎌倉青年団はこの程度の史跡にもわざわざ石碑を建ててくれている。2022年9月23日撮影。
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    この流れに銭を落としたらしい。当時の水量がどの程度だったのか気になるところ。2022年9月23日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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