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日本人の物語00272【平安前期】57代陽成天皇

     貞観10(868)年12月16日。清和天皇と女御・藤原高子の間に貞明親王(さだあきらしんのう:後の陽成天皇:869~949)が誕生しました。この貞明親王は、なんと生後3ヶ月足らずで立太子しました。良房はどんどん強引になっていきますね。
     貞観14(872)年9月2日。藤原良房は曾孫・貞明親王の即位を見ることなく死去しました。68歳でした。良房が死に、ここからはその養子である基経の時代が始まります。
     貞観18(876)年11月29日。26歳の清和天皇は、病気を理由に譲位した……ということになっていますが、本当は健康体なのに、藤原基経の圧力によって譲位させられたのかもしれません。基経にとっては、天皇が幼い方が何かと便利だったことでしょう。
     皇太子・貞明親王は僅か7歳11ヶ月で即位しました。陽成天皇です。
     天皇が7歳と幼いため、藤原基経が摂政に就任することとなりました。基経はこの後、良房以上の強引な手法で政敵を葬っていくことになります。
     さて、陽成天皇の時代に起こった重大事件として、「元慶(がんぎょう)の乱」を取り上げないわけにはいきません。
     元慶2(878)年3月15日、蝦夷たちが秋田城(秋田県秋田市)を急襲し、出羽守を追い出してしまいました。朝廷は鎮圧軍を派遣しましたが、蝦夷たちの猛攻の前に敗れてしまいます。そこで朝廷は5月4日、藤原保則(ふじわらのやすのり:825~895)を出羽権守に任命して鎮圧に当たらせることとしました。この藤原保則の経歴については、詳しい説明が必要でしょう。
     保則は、去る貞観8(866)年に備中権守(岡山県西部の知事代理のようなものです)に就任しました。保則が赴任したころ、備中国は飢饉と悪性にあえぎ、白昼にも強盗が横行し、道には大量の餓死死体があったといいます。保則は農耕の推奨、貧困者の救済、倹約の推奨などによって国を立て直しました。
     保則はその後さらに備前権守(岡山県東部の知事代理のようなもの)に就任しました。このとき、他国から備前に入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り、自首したとの伝説があります。
     この保則の実績に感嘆した朝廷は、元慶の乱の鎮圧役に保則を抜擢したというわけです。
     現地に赴任した保則は、実に彼らしいやり方で蝦夷の反乱に立ち向かいました。蝦夷に対して不動穀を支給し、説き諭したのです。これによって蝦夷は次々降伏していきました。朝廷はこの保則のやり方に怒り、「懐柔ではなく討伐を行うように」と指示しますが、保則は逆に朝廷を説得し、このやり方を認めさせました。
     藤原保則の活躍により、元慶の乱は戦いなくして解決することとなったのです。
     保則ほどの人物が摂政や関白に就任していたら、きっと善政が敷かれていたと思うのですが、残念ながら保則は南家藤原氏の出身であり、これ以上のポストに就くことはありませんでした。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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