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日本人の物語00129【人代後期】茨田堤の工事

     仁徳天皇の治世におけるもう一つ有名なエピソードが、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市)の工事に関する話です。
     仁徳天皇11(322)年4月。川の氾濫が相次いだので、仁徳天皇は全長7里(28km)に及ぶ堤防を築くことにしました。これを茨田堤と呼びます。
     その際、工事の難所が2箇所ありました。何度築いても壊れてしまうのです。
     10月。困った仁徳天皇の夢の中に、神が現れてこう告げました。
    「強頸(こわくび)と茨田連杉子(まんだのむらじころものこ)を川に捧げれば工事がうまくいく」
    というのです。人柱というやつですね。
     これを聞いた強頸は泣き悲しんで入水し、人柱になったのですが、一方、茨田連杉子はなかなか頭の良い男でした。茨田連杉子は衆人環視の中、瓢(ひさご)を川に投げ入れ、
    「私を生贄にせよというのが真の神勅ならば、瓢を水に沈めたまえ。もし瓢が沈まずに浮いてくるならば、お前は偽りの神だ!」
    と叫んだというのです。
     瓢箪が水に沈むわけがありません。その結果、神勅は偽りだったということになり、茨田連杉子は助かりました。
     これってすごいエピソードだと思うんですよね。
     この時代、裁判でどちらが正しいか決めるために「盟神探湯(くかたち)」という方法が取られていました。煮えたぎる湯に手をつけて、火傷をした方が嘘をついている、と断定する方法です。湯に手を入れたら火傷するのは当たり前なわけで、つまりは支配者側が都合の良いように「神勅」を利用するための制度だったと思うのです。科学的に起こり得ることと起こり得ないこととを支配者側はよく知っていて、それを知らない被支配者側をうまく操るというわけです。
     仁徳天皇が夢で得た「神勅」というのもまた、政敵を葬るための方便だったように思われます。強頸と茨田連杉子の2名が政権にとって邪魔な存在になったので、ここで体よく殺してしまおうという意図だったのではないでしょうか。
     しかしながら茨田連杉子は神勅を逆用して助かりました。茨田連杉子は「神勅」の正体をよく知っていたのだろうと思います。
     こうした支配者側にとって不都合な話までも『日本書紀』に収められているとは、面白いものですね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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