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日本人の物語01728【戦国/西国/京兆専制】船田合戦 石丸の野望

    石丸利光という人物のポンコツぶりをひたすら紹介していくことになりそうです。

     周防の大内家の次は美濃の斎藤家における「船田合戦」について見ていきましょう。船田合戦とは一言でいうと、斎藤家から権力を奪おうと考えた石丸利光が様々な謀略をめぐらすものの、何一つ上手くいかず没落していく事件です。
     美濃では守護・土岐成頼の権力が弱まり、守護代・斎藤家の斎藤妙純(実際には彼は守護代ではないのですが)が実権を握っていたのでしたね。
     斎藤家家臣・石丸利光は、妙純を殺害してその地位を奪おうと画策します。妙純が下田郷(岐阜県岐阜市)に大宝寺を創建し、その開堂式が行われることとなったので、石丸利光はその機会に妙純を暗殺すべく準備します。
     妙純が居城の加納城(岐阜県岐阜市)を出発するのは明応3(1494)年12月9日の予定でした。しかし悪天候のため延期となり、待ち構えていた石丸の作戦は失敗に終わります。続いて石丸は、12月10日夕方に船田城(岐阜県岐阜市)に兵を集めて妙純を奇襲しようとしますが、妙純の重臣・西尾直教(にしおなおのり:?~1497)に計画を見破られ、これまた失敗に終わります。
     石丸による襲撃計画を知った妙純は、加納城の堀を拡張したり櫓を増やしたりして戦に備えました。ここまで警戒されてはもはや計画は成り立たないと悟った石丸は、翌明応4(1495)年1月19日に守護・土岐成頼に頼み込み、妙純と和睦しました。
     和睦したとはいえ、もはや石丸を誰も信用してくれませんし、美濃に石丸の居場所はありません。石丸もいたたまれなくなったのか、1月28日未明に美濃から奈良へ出奔しました。石丸に属していた兵たちは、主君が勝手にいなくなってどうしてよいか分からず、とりあえず船田城に残ったといいます。
     さすがに反逆を諦めたかと思いきや、その後石丸はひょっこりと船田城に戻り、守護・土岐成頼に取り入って再び妙純に対抗しようと試みます。なかなか諦めの悪い男です。
     当時、土岐成頼の後継者には長男・政房(まさふさ:1466~1519)が内定していましたが、成頼自身は長男を廃して四男・元頼(もとより:?~1496)に家督を継がせたいと考えました。しかし実力者である斎藤妙純が「長男・政房に継がせるのが当然」と主張し、聞き入れてくれません。
     石丸はここに目をつけました。自分が四男・元頼を支援することで土岐成頼を味方につけ、斎藤妙純を葬ろうというわけです。
     諦めの悪い男・石丸の挑戦はまだまだ続きます。

    お家騒動が大きくなる原因はここにあります。たまたま当主に恨みを持っている人物がいると、対抗馬を担ぎ出して戦乱に発展するのです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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