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日本人の物語00990【南北朝前期】北朝3代崇光天皇

    血縁関係が複雑すぎて、上手く説明できてないかもしれません。やはり図を用いて説明しなければ。

     正平3/貞和4(1348)年10月27日。光明天皇が譲位し、皇太子の興仁親王が即位しました。北朝の3代目となる崇光天皇です。
     前述のとおり、かねてより光厳上皇は皇太子の興仁親王に
    「即位してもよいが、その次は(自分の隠し子である)直仁親王に皇位を継がせるように」
    と指示していました(00969回参照)。
     崇光天皇即位に伴い、誰を皇太子に立てるかが問題となります。当然、北朝の中心人物である光厳上皇は直仁親王を立太子させようとしますが、別に名乗りを挙げた人物がいました。大覚寺統の邦省親王(くにみしんのう:1302~1375)です。
     はて、大覚寺統の皇族がなぜ賀名生ではなく京にいて、持明院統と皇太子の座を争っているのでしょう。これにはひどく複雑な経緯があります。
     そもそも後醍醐は後二条の弟であり、父・後宇多上皇は、「将来は長男の後二条系が皇位を継ぐべき」と定め、後醍醐はあくまで中継ぎと位置付けていたのでしたね。
     ところが後醍醐が、兄の系統から皇位を永続的に奪おうと考えたため、大覚寺統は後二条系・後醍醐系の2統に分裂してしまったのです。そして後二条の子であった邦省親王は、大覚寺統でありながら後醍醐と行動を共にせず、京に残っていたというわけです。
     邦省親王は
    「自分を皇太子に立てて、今後も持明院統・大覚寺統の両統が迭立するようにしたい」
    と必死に働きかけましたが、直義はこれを否定して、直仁親王を立太子させました。直義としては、これ以上皇統を分裂させて更なる混乱を招くことを回避させたかったのでしょう。
     ちなみに崇光天皇については特筆すべき事項があります。それは、現在の天皇家と旧皇族の男系の共通祖先であるという点です。
     昭和22(1947)年、GHQの占領下にあった日本政府は、皇族を大量に減らすよう指示され、11宮家51名を皇籍離脱させました。この51名を「旧皇族」と呼びます。
     これら旧皇族は、男系だけで見ていくと天皇との血縁は意外に遠く、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう:1372~1456)が共通祖先となります。つまり、現在の天皇の男系祖先を遡っていき、さらに旧皇族51名の男系祖先を遡っていくと、最初に共通する人物は貞成親王だというわけです。
     貞成親王の祖父が崇光天皇です。よって、
    「今の皇室に万一男系男子が産まれなかった場合、旧皇族の男子を皇族に復帰させればよい」
    との議論がありますが、その場合、新たに天皇に即位する人物は「崇光天皇の男系子孫であること」を根拠とした即位となるわけで、さすがに遠すぎるとの意見もあるようです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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