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日本人の物語00499【平安末期】一ノ谷の戦い 忠度の最期

     次に平忠度の最期を見ていきましょう。忠度といえば、歌人として名を上げるため都落ちに際して藤原俊成に自らの歌を託していった人物です。その忠度は、一ノ谷で平家が敗北した中、どうにか助け舟に乗ろうと海岸沿いを歩いていました。
     それを呼び止めたのが、源氏方の岡部忠澄(おかべただずみ:?~1197)です。忠澄に名を問われた忠度は
    「私はお前の味方だ」
    と嘘をつきますが、忠澄は疑って忠度の顔を覗き込みます。忠度の歯が黒く染められているのを確認すると、忠澄は「敵に違いない」と確信して組みかかってきました。源氏方にはお歯黒をたしなむような高貴な者がいるわけがないと思ったのです。
     武勇にすぐれた忠度は
    「憎いやつだ。味方だと言ったのだから、おとなしく信じてくれればよいものを」
    と言いつつ、忠澄を組み伏せましたが、忠澄の家来に後ろから斬られ、致命傷を受けます。
     もはや死を覚悟した忠度は、
    「しばし待てい」
    と言って、西方浄土に向かって念仏を唱え始めました。唱え終えてから自害するつもりだったのでしょうが、そんなことすら分からない忠澄は、念仏が終わらないうちに忠度に斬り付け、首を取りました。
     忠澄が忠度の死体を調べたところ、
    「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主ならまし」
    (日が暮れ、桜の木の下を宿としたならば、桜の花が主となってもてなしてくれるだろうか)
    との署名入りの書き付けが出てきたことから、これが忠度だと判明しました。忠澄自身は歌には何の関心もなく、ひたすら高名な武将を討ち取った喜びに浸っていたようですが、人々は武勇にも歌道にもすぐれた武将の死を悲しみ、悼みました。
     平家物語は「文化人たる平忠度が、何ら文化的関心を持たない野蛮な東国武士・岡部忠澄に討たれた」ということを強調しています。平家物語は全体的に清盛・宗盛以外の平家の公達に対して極めて同情的であり、その最期を涙を誘うエピソードとともに丁寧に記録しているのです。
     一方、岡部忠澄の地元である岡部原(埼玉県深谷市)では、忠澄が野蛮な東国武士ではなく、自らが討った忠度を丁重に葬り、地元に供養塔を建てたとのエピソードが語り継がれています。平家物語は東国武士の実像を伝えているとは限らないのですね。
     全くの余談ですが、鉄道に不正に無賃乗車をする行為のことを「キセル」といいますが、かつては「薩摩守(さつまのかみ)」と呼ばれていました。なぜかというと、平忠度の官職が「薩摩守」であり、その名が「ただのり」=「ただ乗り」に通じるからです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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