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日本人の物語00944【南北朝初期】妙法院焼き討ち

    「30年かけて」というコンセプトとタイトルにしたことを若干後悔しているところ。本当に続けられるか不安だし。でも今更変えられない・・・。

     ここで京に視点を切り替え、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉が犯した最大の事件について紹介しておきましょう。
     興国元/暦応3(1340)年10月6日。道誉の嫡子に当たる佐々木秀綱(ささきひでつな:?~1353)が鷹狩りの帰り道に、ふと紅葉がすばらしく色づいた庭の横を通りかかりました。
     その庭は妙法院という寺院の庭でしたが、秀綱一行はこの紅葉の枝を折って持ち帰ろうとします。
     時折しも、妙法院門主の亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)が紅葉を鑑賞している最中でした。亮性法親王とは光厳上皇の弟に当たる高貴な出自で、後に天台座主に就任する人物です。
     妙法院の僧らが
    「御所の枝を折るのは誰だ」
    と注意しましたが、秀綱一行は
    「御所とは何だ。笑わせるな」
    と取り合わず、枝を折るのをやめなかったため、僧らは激怒して秀綱の列に襲いかかり、枝を奪い返すとともに秀綱らを打擲しました。
     さて、秀綱から事の次第を聞いた道誉は怒り、自ら300騎の兵を率いて妙法院に赴き、これを焼いてしまいます。妙法院は天台宗の寺院だったので、これには延暦寺が激怒して、道誉の死刑を求めて強訴して来ました。当然の反応でしょう。
     朝廷は
    「さすがに死刑は行き過ぎだ」
    と判断し、道誉を出羽に、秀綱を陸奥に配流するよう幕府に求めました。幕府はこれをさらに軽くして、父子揃って上総(千葉県)への配流ということで妥協しました。
     興国2/暦応4(1341)年4月25日。佐々木父子は上総に向けて出発しました。このときの行列は、見物人の度肝を抜くものでした。
     行列には見送りと称する若衆が300人もおり、彼らは猿の皮を腰当てとして身に着けていました。猿は比叡山では「神獣」とされており、明らかな当て付けでした。
     さらに若衆は酒を入れた駕籠を持っており、行列を進めながらところどころで飲酒し、さらに宿に着くと遊女を呼んで夜な夜な遊んでいたといいます。
     この話は『太平記』のみならず、当時の公家・中院通冬の日記にも書かれているので、史実なのでしょう。
     なお、道誉は同年8月14日には尊氏によって呼び戻されており、僅か4ヶ月の謹慎期間でした。道誉の流罪はあくまでも延暦寺に対するポーズでしかなかったようです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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