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日本人の物語00052【弥生】邪馬台国への道 帯方郡~伊都国*

     では、いよいよ邪馬台国への道程を見ていきましょう。出発点は帯方郡(たいほうぐん)、現在のソウルです。魏の皇帝から使わされた使者は帯方郡から邪馬台国へと向かい、帰国後にその道程を報告し、陳寿はその報告通りに記録を残したはずなのです。
     ここからは、できれば地図を見ながら読んでいくことをお薦めします。ちなみに現在の1里は約3.9kmですが、当時の魏における1里は何メートルだったのか、定説がありません。
    ・「至其北岸狗邪韓國七千餘里」
     帯方郡から「狗邪韓国(くなかんこく)」まで7000里余り。その狗邪韓国は海の北岸にあるとのことです。
     狗邪韓国が現在の釜山(プサン)であることは異論のないところです。
    ・「始度一海千餘里至対海國」
     海を渡り1000里余りで、「対海国(たいかいこく)」に至るといいます。
     この後で「対海国は島だ」との記述が出てきますから、対馬(長崎県対馬市)のことだと分かります。
    ・「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」
     また南に海を渡り1000里余りで「一大国(いきこく)」に至ります。海の名前を「瀚海(かんかい)」というようです。
     「一大国」は現在の壱岐(長崎県壱岐市)です。ここまでは異論の余地がありません。
    ・「又渡一海千餘里至末盧國」
     また海を渡り1000里余りで「末盧国(まつらこく又はまつろこく)」に至ります。
     いよいよ本土に上陸ですね。ここからは学者によって若干の意見の相違があるのですが、佐賀県の東松浦(ひがしまつら)半島だというのが多数説です。「まつら」という地名が残っているのがその証拠だというのですが、地名が似通っていることを根拠とするのは危険だという主張もあります。確かに、「まつら」「まつろ」程度の類似ならば、他の土地でも当てはまるものがいくらでもありそうです。
    ・「東南陸行五百里至伊都國」
     東南に陸地を歩くこと500里で「伊都国(いとこく)」に至ります。
     難しくなってきました。東松浦半島から南東方向に歩いても、それらしい地名はありません。しかし北東方向にいくと「糸島(いとしま)半島」という地名があります。「いと」の発音が共通しています。ここで、「南東」とは「北東」の誤りではないかという説が出てくるわけです。魏の使者は不慣れな道であったため、90度くらい方向感覚がずれていたのだろう、というのです。なんともご都合主義の主張ですが、とりあえずこの説を肯定して次に進みたいと思います。

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    末盧国があったとされる佐賀県唐津市の末盧館。ここは菜畑遺跡という最古の農村があった場所(争いあり)で、出土品が展示されている。2023年9月22日撮影。
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    伊都国があったとされる福岡県糸島市の伊都国歴史博物館。2023年9月22日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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