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日本人の物語00130【人代後期】隼別皇子の反逆*

     さて、仁徳天皇の皇后についても記紀にはいくつかのエピソードが収められています。
    皇后の磐之媛(いわのひめ)は嫉妬心が強く、仁徳天皇が側室を増やそうとすると、足をバタバタさせて嫌がったというのです。
     「足をバタバタ」という部分は、古事記の原文では
    「足もあがかに嫉みたまひき」
    と書かれています。すごい表現ですね。
     仁徳天皇30(341)年9月11日。磐之媛は、豊楽(とよのあかり)という宮中の催しの準備のため、柏の葉を取りに熊野(三重県新宮市)に向かいました。この間に仁徳天皇は、八田皇女(やたのひめみこ)という女性を側室に迎えます。
     このことを聞いた皇后は、柏の葉を海に投げ捨ててしまい、帰ろうとしませんでした。困った仁徳天皇は使者を派遣して皇后を迎えさせようとしますが、皇后は使いに会おうとしません。
     古事記では天皇は自ら皇后を迎えに行って仲直りします。ただし日本書紀では仲直りできず皇后は山城の筒城宮(京都府京田辺市)に引き籠もってしまい、天皇はやむなく八田皇女を新たな皇后として迎えたと伝わります。
     説得を重ねてやっと皇后が帰って来てくれたのに、仁徳天皇の女好きはそれでも収まらなかったようで、今度は雌鳥皇女(めどりのひめみこ)という女性に目を付けました。
     仁徳天皇40(352)年2月。仁徳天皇は弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を遣わして、雌鳥皇女に求婚しますが、雌鳥皇女は
    「皇后のご気性が激しいので……」
    と言って固辞します。皇后が嫉妬深く、その怒りに触れたらどうなるか分からない、という話は国じゅうに広まっていたのでしょう。
     ところが、雌鳥皇女もまた恐ろしい女でした。雌鳥皇女は隼別皇子に対して
    「あなたの妻にならなりましょう」
    と言って結婚してしまいます。そして隼別皇子をそそのかし、仁徳天皇を殺させようとしたのです。どっちが気性が激しいんだか。
     これを知った仁徳天皇は、軍勢を出して二人を殺害し、反乱は未然に防がれました。
     仁徳天皇87(399)年1月16日。仁徳天皇が崩御します。記紀には巨大な墓を作ったとの記載があります。これが大阪府堺市にある仁徳天皇陵(大山古墳)のはずなのですが……。本当に仁徳天皇が眠っているかどうかは不明です。
     この仁徳天皇陵は、令和元(2019)年に「百舌鳥・古市古墳群」の一つとして、世界遺産に登録されました。現在は、堺市役所21階の展望ロビーから全体像を見ることができます。

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    堺市役所から全体像が見える、とは言ったものの、形がはっきり見えるほどでもないかも。2024年8月24日撮影。
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    堺市役所21階にはこういう展示もある。2024年8月24日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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