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日本人の物語00344【平安中期】67代三条天皇

     寛弘8(1011)年。道長の嫡子である藤原頼通(ふじわらのよりみち:1027~1068)が春日社に参詣したところ、各貴族がそれに同行しました。
     その結果、一条天皇の食事の給仕役がいなくなり、一条天皇は
    「きっと明日も誰もいないのだろう」
    と嘆息したといいます。
     これはうっかり起きた出来事ではなく、道長・頼通による一条天皇への嫌がらせではないでしょうか。早く退位させて、道長の孫である敦成親王を皇太子につけたいということでしょう。
     6月13日。一条天皇は病のため譲位し、皇太子・居貞親王が即位しました。三条天皇です。三条天皇の即位に伴い、道長の目論見通り、彰子の子である敦成親王が立太子しました。
     ここで彰子は、なんと
    「心づもりをしていた敦康を思うと心が痛む。どうにか撤回できないか」
    と道長に直訴しました。敦康とは亡き定子の子ですから、道長にとっては政敵の子です。彰子は敦康を引き取って育てていたため、情が移ったのでしょう。道長はもちろんこれを無視しました。
     6月19日。病身の一条天皇が出家しました。御堂関白記に
    「法衣がなかったためありあわせのものを使った」
    との記述があり、天皇の出家だというのにちっとも配慮がなされなかった様子が記されています。また。藤原行成の日記『権記』には
    「髭を剃ってから髪を剃るべきところを、髪を剃ってから髭を剃られたため、一時的に外道の姿にされた」
    と行成の不満が記されています。「男子さえ産まれればもう用はない」とばかりに、ことごとく道長にないがしろにされたのですね。
     出家後まもなくの6月22日、一条天皇は崩御しました。辞世は
    「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」
    でした。ここでいう「君」とは誰のことなのでしょう。一見すると「君を置いて世を去ることが悲しい」という意味に見えますので、彰子のことかなと思われますが、行成の『権記』には
    「最愛の定子に宛てられた歌であろう」
    と書かれています。
     一方、彰子は一条天皇の死に当たって、
    「逢ふことも 今はなきねの 夢ならで いつかは君を または見るべき」
    と詠みました。彰子の悲しみが伝わってくる歌です。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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