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日本人の物語01277【室町/義満期】皇位簒奪計画

    今谷明氏は「王権簒奪計画」と呼んでいるのですが、室町時代には既に「王」と「皇」の違いが使い分けられていたと聞いていますので、私は「皇位簒奪計画」と呼ぶことにしたいと思います。

     義満が義嗣を怒涛の勢いで昇進させた理由については、3つの説があります。
    ①義持を廃嫡して義嗣を後継にするつもりだった
     かつての通説です。しかし義満は義嗣を昇進させているだけで、義持の地位を下げるような行動はとっていないので、何ともいえません。
    ②義持に征夷大将軍を継がせて武家の棟梁としつつ、義嗣に太政大臣を継がせて公家の最高位として君臨させるつもりだった
     義持が笙を苦手とした一方で、義嗣は得意としていました。そこで義満は、2人の子に得意な分野をそれぞれ担当させ、自らの権限を2つに分割して継がせるつもりだったという説です。これはあり得る気がします。
     しかし1990年代に歴史学会を驚嘆させる新説を唱えた史学者がいます。中世史学者の今谷明氏が次のような説を提唱したのです。
    ③義持に征夷大将軍を継がせて武家の棟梁としつつ、義嗣を天皇に据えるつもりだった
     これは「王権(皇位)簒奪計画説」と呼ばれ一大センセーションを巻き起こし、『室町の王権』(中公新書)という著書で詳しく解説されましたが、学界で多数説として受け入れられているものではありません。
     ちなみに、以前後小松天皇が義満の実子であるとの説を紹介しました。もしこれが事実だとしたら、義満による皇室の乗っ取りは既に完了しているわけで、改めて義嗣を天皇に据える必要などありません。つまり「後小松=義満落胤説」と「義嗣天皇擁立説」は一見矛盾するのですが、
    「後小松が実子であると明かすには三条厳子との不倫を告白せざるを得ず、それでは万民の賛同は得られない。いっそ別の実子を天皇に据えてしまおう」
    と考えた可能性もあるので、2つの説が矛盾なく並び立つとも考えられます。
     今谷氏の説によると、義満は次に義嗣を後小松天皇の猶子(養子)にして親王宣下し、さらには皇太子に立てる計画だったというのです。その根拠は、
    ・自らの妻を後小松天皇の准母に据えたこと
    ・自ら太上天皇を号しようとしたこと
    ・義嗣を親王待遇で元服させたこと
    ・山科教言(やましなのりとき:1328~1411)の日記『教言卿記』では、義嗣の元服により呼び方が「新御所」から「若宮」に代わっており、皇族待遇の呼称となっていること
    です。しかしこの説には反対も多く、反対説の論拠は
    「天皇の権力から上皇や准母が生み出されるのであって、上皇や准母という周囲の称号を整えたからといってそこから天皇位が生み出されることはない」
    というものです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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