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日本人の物語00363【平安中期】前九年の役 厨川陥落*

     衣川の戦いでは、陸奥国府側が勝利しました。安倍貞任・藤原経清は厨川柵へ逃亡します。厨川柵は現在、「岩手県盛岡市前九年」という住所地番になっています。
     このとき、逃亡しようとする貞任に対し、義家が「衣の楯はほころびにけり」と呼びかけると、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返事をしたという伝説があります。
     義家の下の句に対し、貞任が即興で上の句を付けたというわけですね。
    「衣の楯がほろこぶように、衣川を拠点とした安倍氏の繁栄もこれまでだ」
    と義家は呼びかけたわけですが、貞任は
    「戦が長引いて、糸が乱れていくように安倍氏の結束も乱れてしまった」
    と嘆いたというわけです。
     これは『古今著聞集』に載っている話ですが、安倍貞任が文人としてのセンスも持ち合わせていたことを物語るエピソードですね。
     続いて源頼義・義家は、安倍氏の最後の砦であった厨川柵を攻撃しました。この猛攻の前に、安倍側はなすすべもなく総崩れとなりました。安倍貞任は戦死し、藤原経清は生きて捕らえられました。
     さて、藤原経清の処置をめぐって源氏方で評定が開かれますが、源頼義はよほど藤原経清を恨んでいたらしく、頼義の命により経清は錆びた刀で鋸引きにして処刑されてしまいます。通常の打ち首よりもはるかに長く苦痛を与える手段です。源氏の長でありながら、このような残忍な性格であった源頼義は、その後の源氏長者たちからもあまり人気がありません。後世、源頼朝も義家を先祖として崇めるばかりで、頼義に対しては何らの敬意も払っていなかったように見受けられます。
     肝心の安倍家の措置はどうなったかというと、まず安倍貞任の弟・宗任(むねとう:1032~1108)は九州に流罪となりました。
     ちなみに、政治家・安倍晋三は記者からのインタビューの中で、
    「我が家は宗任の子孫であるとの伝説が伝わっている。本当かどうかは分からないが」
    と述べています。家系図があるわけではないので、真実かどうかは分かりませんが、九州に流罪となった安倍家がその後山口に移り住んだというのは、あり得ない話ではないですね。
     現代においても、岩手県において安倍貞任・宗任兄弟は人気があるようです。安倍首相は岩手で演説をする際にはこの話から話し始めることがあったといいます。
     宗任が流罪で済まされた一方で、安倍貞任の嫡男(9歳)は処刑されてしまいました。貞任は首謀者とみなされていたので、当時としては許される余地がなかったのでしょう。

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    茨城県下妻市にある宗任神社。2022年7月10日撮影。安倍晋三が殺害された翌々日に、安倍晋三の先祖を祀る神社に来たわけで、安倍氏を慕う人々が集まっているかと思ったら全くそんなことはなかった。晋三と宗任の関係はさほど知られていないのかもしれない。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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