メインコンテンツへスキップ
見出し画像

日本人の物語00667【鎌倉中期】将軍頼嗣の解任

     宝治合戦終了後の宝治元(1247)年7月27日、時頼は六波羅探題を務めていた極楽寺重時を京から呼び戻し、連署に任命することとしました。三浦泰村が嫌がった人事を三浦亡き後に実現したのです。後嵯峨上皇は重時の辞任をひどく惜しんだといいますから、重時は朝廷内でも信頼を集めていたのでしょう。
     六波羅探題の後任には、重時の子・赤橋長時(あかはしながとき:1230~1264)が就任することとなりました。
     さて、宝治合戦の影響は長く残り、5年経って将軍交代という政変につながることとなります。
     まず、建長3(1251)年12月7日、御家人・足利泰氏(あしかたやすうじ:1216~1270)が自由出家の罪を犯したと自ら申告してきました。当時、御家人が出家するには幕府の承認が必要でしたが、承認を得ずに出家してしまうことを「自由出家」と呼び、処罰の対象となっていたのです。足利泰氏は所領の一部を没収され閉居処分となりました。泰氏はなぜ出家しようとしたのか、記録は残っていません。
     次に12月26日、三浦の残党・了行(りょうぎょう)が謀反を計画したとして捕らえられました。了行を尋問することで、この計画に前将軍・九条頼経やその父・道家の関与が明らかとなりました。
     3週間前の足利泰氏の自由出家は、時頼打倒の企てに関与し、それが発覚しそうになったからではないかと考えられます。
     時頼としては、事ここに至って九条家の影響下から完全なる脱却を図る必要が出てきました。将軍頼嗣を追放して、新たな将軍を迎えるしかないということです。
     建長4(1252)年2月20日。二階堂行方(にかいどうゆきかた:1206~1267)が鎌倉を出発し、京に向かいました。二階堂行方の持参する書状には、
    「頼嗣は将軍を辞する意向である。後嵯峨上皇の皇子の一宮(長男)か三宮(三男)のいずれかを将軍として下向させてほしい」
    と書かれていました。この書状の存在は執権時頼と連署重時の2名しか知らなかったといいます。つまり、頼嗣は自分の知らぬ間に辞意表明をさせられていたのです。
     九条頼嗣の生涯は、
    「満4歳で将軍位に就き、満6歳で9歳年上の檜皮姫と結婚させられ、満7歳で父が反逆の容疑で追放となり、満8歳で妻を失い、満12歳で将軍解任を決められた」
    というものでした。政争に振り回された哀れな生涯だったといってよいでしょう。

    この記事が参加している募集

     
     
     
    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

    あなたへのおすすめ