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日本人の物語01727【戦国/西国/京兆専制】陶と内藤の成敗

    室町幕府15代のうち、やっと11代まで来ました。しかしここからが長いんですよね。

     明応3(1494)年12月27日。足利義澄は元服とともにやっと11代将軍となりました。
     将軍就任早々、周防の大内家と美濃の斎藤家で事件がありました。まずは大内家の方から見ていきましょう。
     応仁の乱以来、周防山口を本拠とする大内政弘は、九州に進出して少弐政資・大友政親(おおともまさちか:1444~1496)と戦っていました。明応3(1494)年に入ると、少弐政資・大友政親は結束して大内政弘の領地である筑後に侵攻し、そのまま肥前・筑後のほとんどを制圧してしまいました。
     弱り目にたたり目とはよく言ったもので、九州の領地を回復しなければならない大変なときに、大内家の重臣である陶興明(すえおきあき:1477~1495)が兄に殺害されるという事件が起きました。明応4(1495)年2月13日のことです。
     興明を殺害した兄の陶武護(すえたけのり:?~1495)は、3年前に突然出家し四天王寺に入寺していた人物でした。この兄が突然現れたと思ったら弟を殺害し、また行方知れずとなったのです。大内政弘は怒って武護の行方を捜索させ、姫山(山口県山口市)で討ち取りました。
     この衝撃的な事件から2週間後の2月28日、さらに謎の事件が起こります。大内政弘が長門守護代を務める重臣・内藤弘矩を自邸に招いて殺害したのです。子の内藤弘和(ないとうひろかず:?~1495)は激怒して挙兵しましたが、これまた討伐されました。
     この謎の内藤父子殺害事件はどう解釈されるべきなのでしょうか。
     ヒントとなるのは、この13年前に起こった陶弘護刺殺事件(01641回参照)です。宴の最中に吉見信頼が陶弘護を刺殺し、その吉見信頼はその場で内藤弘矩に成敗されたのでしたね。本稿では「大内政弘が陶弘護暗殺を指示し、その実行役である吉見信頼もまた、口封じのため内藤弘矩によって殺害された」という説を説明したところです。
     この説が正しいとすると、陶弘護の息子たちは内藤弘矩に恨みを持ったはずです。「内藤は自らに恨みを持つ陶兄弟を葬ろうと考え、何らかの方法で兄に弟を殺害させ、その兄をも討伐という形で葬った」という線はどうでしょう。「さらにその後、陶兄弟を次々と殺害した内藤のやり方に、当主大内政弘もさすがに危険を感じて成敗した」とすればこれら一連の事件は納得できます。
     とはいえこれも想像の世界でしかなく、新たな史料でも発見されない限り、陶兄弟の事件の謎は謎のままでしょう。
     重臣を次々と成敗した大内政弘は9月18日に死去し、家督は嫡男の義興が継ぎました。義興はさっそく少弐・大友に奪われた九州の領地を奪回すべく戦い始めるのですが、その経緯はもう少し後で触れることになりそうです。

    大内政弘が退場しました。応仁の乱の主役級の人物がまた一人いなくなりました。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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