
日本人の物語01717【戦国/東国/長享の乱】忙殺される宗瑞
昨今の政治を見ていると、早く現代を描きたくてウズウズしていますが、時代順に書くというルールは変えたくありません。
明応8(1499)年10月に和解したはずの山内・扇谷の対立は、文亀元(1501)年11月26日にまた火を噴きました。山内上杉顕定が「今なら勝てる」と踏んだらしく、和睦を破って扇谷方の本拠地・府川(埼玉県川越市)を攻撃したのです。長享の乱は二度中断したものの、これで三たび起こったこととなります。
この府川の戦いがどうなったか記録がありませんが、山内方が善戦したものと思われます。
山内方に属する古河公方政氏も、また攻勢に転じました。文亀2(1502)年6月20日、嫡子の高基(たかもと:1485~1535)を連れ、本佐倉城の千葉孝胤を討伐するため出陣したのです。
政氏・高基父子は下総国篠塚(千葉県佐倉市)に布陣し、そのまま3年間も在陣して千葉氏と戦いましたが、決定打を与えることができないまま永正元(1504)年4月13日に古河に帰国しました。
古河公方が下総国内にいた3年の間に、伊勢宗瑞は甲斐へと侵攻していました。文亀2(1502)年9月18日に甲斐国内に入り、小倉山(山梨県富士吉田市)に在陣した宗瑞は、武田信縄と戦ったものの10月3日には撤退しました。決着がつかなかったのでしょう。
その後1年あまり経った文亀4(1504)年1月、宗瑞は扇谷上杉朝良の指示を受け、山内領内に攻め込む準備にかかったようです。これは、1月中に山内上杉顕定が家臣・長井次郎(ながいじろう)の本拠である椚田城(くぬぎだじょう:東京都八王子市)を防衛するよう指示する文書が残っていることからの推測です。
宗瑞は3月になってから椚田城を攻撃しました。顕定はすぐさま上野国の国人である小幡景高(おばたかげたか)・神保孫太郎(じんぼうまごたろう)らを救援に向かわせました。さらに3月30日には顕定が勝沼城(東京都青梅市)の三田氏宗(みたうじむね)に椚田城救援を命じた記録が残っています。
肝心の椚田城の戦いの結果がどうなったか不明ですが、恐らく伊勢宗瑞はこれを落とせずに立ち去ったものと思われます。
扇谷家からの依頼による甲斐・武蔵侵攻に失敗した伊勢宗瑞は、今度は駿河の今川家からの依頼を受けて遠江攻略に乗り出します。永正元(1504)年7月頃、宗瑞は懸川城(静岡県掛川市)の朝比奈泰熙(あさひなやすひろ:?~1511)とともに黒山城(静岡県浜松市)を落としました。今川家はなぜか当主の氏親を出さず、宗瑞に遠江侵攻という重要な仕事を任せています。それほどに氏親は叔父・宗瑞を信頼していたのでしょう。
掛川はかつては「懸川」。川越はかつては「河越」。地名の漢字表記はコロコロ変わるものですね。