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日本人の物語00980【南北朝初期】四条畷の戦い 正行の評価*

    昔は「小楠公」というともちろん楠木正行のことだと誰もが知っていたそうです。今は「横井小楠」という幕末の熊本藩士の方が有名かもしれませんね。

     楠木党の勇士・和田源秀は師直と刺し違えて死のうと近づきますが、後ろから湯浅太郎左衛門(ゆあさたろざえもん:?~1348)という男が近づいて源秀の両膝を切り、倒れたところに走り寄って首を斬りました。和田源秀は死に際に目を見開いて湯浅を睨み、死後もその目は閉じなかったといいます。
     その後、湯浅は病を発症して7日目に悶えながら死んだといいます。源秀の呪いにかかったのでしょう。
     源秀の弟に当たる和田正朝は、吉野の朝廷に参上して戦闘の報告をしようと、一人で東条(大阪府富田林市)の方へと逃げて行きました。
     そこに北朝方の安保直実(あぼただざね)が一騎で追いかけてきて、
    「和田、楠木の人々は自害されましたぞ。それを見捨ててお逃げになるとは情けない」
    と言葉をかけたところ、和田正朝は笑って、
    「ではお相手いたそう」
    と言って引き返し、太刀を持って斬りかかっていきました。安保直実は和田を挑発しておきながら、一対一の勝負では敵わないと思って退きます。
     安保が止まれば和田は逃げて安保がまた追いかける。和田が引き返そうとすると今度は安保が逃げる……ということが繰り返され、そうこうしているうちに、北朝方の兵が集まって来ました。和田正朝は矢で7ヶ所も射られ、遂に首を取られてしまいました。
     結局、四条畷の戦いでは、楠木正行・正時兄弟も、その従兄弟に当たる和田源秀・正朝兄弟も全てやられてしまい、南朝にとっては最悪の事態となりました。
     その後、明治時代になって正成は「大楠公」、正行は「小楠公」と呼ばれて神聖視されていきました。
     明治22(1889)年には、勅命により楠木正行を祀るための四条畷神社が創建されました。その後、飯盛山城の頂上には楠木正行像が造られました。
     なるほど楠木父子は立派な武将だったと思うのですが、それが「命を捨てて天皇に仕える」という好例とされて昭和初期に軍部に利用された感は否めません。そのせいで、戦後は一転して忌み嫌われてしまった感もあります。いずれのイデオロギーからも脱却して、純粋に楠木党を評価できる時代が到来してほしいものです。
     さて、長男正行と次男正時の死によって、楠木家の家督は三男正儀へと移っていきます。この正儀が今後、南朝のエースとして京を四度も陥落させるなど活躍していくのですが、その様子は南北朝中期の稿で取り上げていくことになるでしょう。

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    四條畷神社の近くにある和田源秀(賢秀)の墓。2025年8月11日撮影。
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    敵に噛み付いたことから、歯の神様になったそうです。2025年8月11日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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