
日本人の物語01698【戦国/東国/長享の乱】山入家、本家を追放
佐竹家の内紛が大きく動きます。
佐竹家の最大の危機を乗り切った義治は、燃え尽きたように延徳2(1490)年4月25日に死去し、子の義舜の時代となりました。
当主義治の死を好機と見たのが、山入家です。8月23日、山入義藤・氏義(うじよし:?~1504)父子は江戸氏と結んで太田城を攻撃しました。
佐竹家は前年に圧倒的な大軍を撃退したばかりなのに、今回は呆気なく敗れました。佐竹義舜は太田城から脱出し、曽目城(茨城県常陸太田市)の天神林義成(てんじんばやしよしなり)を頼ろうとしましたが、曽目城は既に山入方に寝返っていました。
義舜は次に小場城(茨城県常陸大宮市)の小場義躬(おばよしみ)・義忠(よしただ)父子を頼ります。ここでは歓迎されて匿われましたが、山入の手が迫ってきたため更に遠方に逃れることとなり、最終的には母方の親戚に当たる大山義成(おおやまよしなり)を頼って孫根城(茨城県城里町)に逃亡しました。孫根城は、かつて義舜の祖父の佐竹義俊が大山常金を頼って逃れた場所であり(01525回参照)、大山義成はその常金の子に当たりますから、父子二代に渡って佐竹本家を助けたわけです。
さて、山入父子は佐竹本家が不在となった太田城に入城しました。佐竹本家と山入家の「百年戦争」が始まったのは応永14(1407)年のことで、それ以来80年以上戦っているわけですが、敵の本拠を山入が押さえたのは初の快挙です。
山入家にとってはまさに全盛期ですが、この頃のこんなエピソードが佐竹家文書に記録されています。山入義藤がふと子の氏義に、
「奥州藤原氏はなぜ滅んだと思うか」
と尋ね、氏義が
「秀衡が死んだからでしょう」
と答えると、義藤は
「そのとおりだ。戦に当たっては、目前の敵よりも内輪の揉め事の方が恐ろしいものだ。覚えておくが良い」
と語ったというのです。奥州藤原氏は秀衡が死去したことで一家をまとめるものがいなくなり、最終的には泰衡と義経の同士討ちで滅んだわけですが、義藤がそれを子に諭したとのエピソードは、あまりに出来過ぎた話です。というのも、山入義藤が死去することで山入家はまとまりを欠き、あと12年で滅びるのですから。
氏義に内部結束の重要性を語った名将・山入義藤は延徳4(1492)年1月14日に病没し、氏義が家督を継ぎました。この氏義こそが山入家の最後の当主となります。
佐竹家文書は、なぜか本家ではなく山入家の方に肩入れしているかのような部分がそこそこ多いようです。