
日本人の物語01714【戦国/東国/長享の乱】茶々丸自害
茶々丸は恐らく元服していたはずですが、実名が不明のため「茶々丸」と呼ばざるを得ません。
山内VS扇谷の戦いが泥沼化する中、これまで扇谷家の支援に徹していた伊勢宗瑞が、徐々に独自の戦いに注力し始めます。
前述のとおり、宗瑞は明応2(1493)年に堀越公方茶々丸を襲撃したものの、茶々丸本人を討つことには失敗していました。茶々丸は甲斐や伊豆大島などを転々と逃亡しており、伊豆半島の中にも複数の協力者を有していたのです。
明応6(1497)年4月。宗瑞方の柏久保城(静岡県伊豆市)が、茶々丸派の狩野道一(かのうどういつ)に攻撃されました。しかし大見城(静岡県伊豆市)から出撃した大見三人衆が見事にこれを撃退し、事なきを得ました。ちなみに大見三人衆とは宗瑞の家臣で
・佐藤藤左衛門(さとうとうざえもん)
・梅原六郎左衛門(うめはらろくろうざえもん)
・佐藤七郎左衛門(さとうしちろうざえもん)
の3人ですが、この3人の生涯について詳細は分かっていません。
この狩野の反乱を受け、宗瑞は
「このところ関東の戦いに駆り出されてばかりだが、まずは伊豆半島を統一しなければ」
との思いを持ったのでしょう。宗瑞はここから茶々丸派を一掃すべく、伊豆半島南部に兵を繰り出します。
明応6(1497)年12月。宗瑞は敵の拠点・狩野城(静岡県伊豆市)を陥落させました。城主の狩野道一がどうなったかは不明ですが、この後歴史上に登場しなくなるので、滅びたのでしょう。
明応7(1498)年8月には、宗瑞は遂に茶々丸の亡命先である関戸吉信(せきどよしのぶ:?~1498)の深根城(静岡県下田市)を陥落させました。茶々丸は自害し、城主・関戸吉信は茶々丸の首をもって城から脱出しましたが、梨本(静岡県河津町)で追い詰められて自刃しました。このとき、吉信の妻・尉奈の前(じょうなのまえ:?~1498)も夫の後を追って自害したといわれています。尉奈の前は丁重に祀られ、その後
「女の病なら願をかければ必ず治る」
などと言われて多くの人の信仰を集めました。
このとき、深根城では城中にいた将兵のみならず、女・子供に至るまで千人が殺害され、その首が城の周囲にさらされたとの伝説があります。宗瑞といえば領民思いの国主で有名なのですが、史実かどうか、史実でないとすればなぜそのような言い伝えが残っているのか、何とも不思議です。
いずれにせよ、宗瑞はようやく宿敵を倒し、伊豆一国を統一しました。ここから宗瑞の侵略は相模・武蔵に向けられることとなります。
伊豆は全く別の国からやってきた者に奪われたわけで、これぞ戦国時代、といった印象ですね。