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日本人の物語01539【室町/西国/応仁の乱】乱の原因 最新説

    最新説の説明です。近年、従来説を覆す本がたくさん出版されています。

     日野富子は、北条政子や淀殿(茶々)と並んで「日本三大悪女」などと評されています。その理由は『応仁記』で乱勃発の原因と名指しされたためなのですが、そこには多くの創作が含まれています。ここではその従来説を覆していきましょう。
    【将軍後継をめぐる対立は起こっていない】
     もし「9代将軍は義視か義尚か」という対立が乱の主たる要因ならば、途中で義視が東軍から西軍に寝返った(詳細は後述)ことが説明できません。つまり、将軍後継をめぐる対立構造自体が存在しなかったと考えるのが妥当です。
     そもそも応仁の乱勃発時には義尚は満1歳そこらであり、すぐに将軍に据えるのは困難でした。よって、選択肢は次のとおり3つありました。
    ①義視を将軍に据え、義尚は将軍にしない。(その後も義視の子孫を将軍とする)
    ②義尚を将軍に据え、義視は将軍にしない。(義政に隠居を思いとどまってもらい、義尚が成長するまで義政に将軍職を続けさせる。)
    ③義視・義尚両方を順番に将軍にする(義視を将軍に据え、義尚が成長するまでのつなぎとする。)
     従来説では「東軍が①、西軍が②」という対立構造でしたが、現在は東軍・西軍とも③で一致していたとみられています。東軍も西軍も義視を「つなぎ」と認識していたからこそ、義視は東軍・西軍のいずれとも組むことができたのです。このことは
    ・義視の後見人だった細川勝元は、義視の裏切りを知るとすぐに義尚の将軍継承を推しており、決して義尚を嫌ってはいなかったこと
    ・日野富子は9代将軍となった息子義尚が死去した後、義視の子を10代将軍に推すなど、義視との関係が良好だったこと
    からも裏打ちされます。
    【富子は西軍を支援していない】
     将軍後継をめぐる対立構造がなかったとしたら、自ずから「富子が西軍に属していた」という話も創作となります。そもそも富子が西軍を支援したという話は、尋尊の日記の
    「富子が畠山右衛門佐(義就)に一千貫文を貸したらしい」
    との記述から来ています。しかしこの融資が行われたのは戦が終結する直前であり、直後に義就は戦をやめて領国の河内に帰国しています。つまり富子は戦を終わらせるために敵の帰国費用を融資してあげた可能性があるのです。だとしたら富子は悪女どころか平和構築の立役者といえます(詳しくは後述)。
     富子は確かに同時代人の日記で批判されていますが、それに創作が加わって『応仁記』で悪女像を確立されてしまったようです。
     要するに応仁の乱の原因は、あくまで畠山家と斯波家の家督争いなのです。本稿では可能な限り最近の説に則って応仁の乱を見ていきましょう。

    あとで見返して気づいたのですが、本稿は「従来説はウソだ」ということだけを訴えていて、「じゃあ本当の乱の原因は何なの」という点に「畠山家と斯波家の家督争い」としか答えていませんね。いやでもこの2家の家督争いについては「大乱前夜」の章で嫌というほど説明してきたので、もう要らないですよね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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