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日本人の物語00412【平安後期】保元の乱 白河北殿の炎上

     義朝軍と為朝軍の戦いにおいて、最初に名乗りを上げたのは、義朝配下の大庭景義(おおばかげよし:1128?~1210)、景親(かげちか:?~1180)の兄弟でした。この大庭兄弟は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の曽孫に当たります。
     大庭兄弟は為朝軍相手に善戦しますが、為朝の矢が景義の膝に当たり、景義は落馬します。弟の景親がこれを手当てしました。
     この大庭景義の膝に当たった矢が、為朝の生涯唯一の射損じであったと伝えられています。為朝は
    「これほど外したことは覚えがない」
    と悔しがり、以後、大庭景義は事あるごとに
    「為朝公の矢を受けて生き残ったのは俺だけだ」
    と自慢話をするようになったといわれています。
     さらに義朝配下で活躍したのが、金子家忠(かねこいえただ:1138~1216)です。家忠は敵2人を仕留め、敵前を悠々と
    「この家忠を勇者の先例にせよ」
    と言いながら出ていきました。
     為朝配下の須藤家季(すどういえすえ)がこれを射ようとしますが、為朝がこれを止めました。
    「あのような兵は滅多にいないから生かしてやれ。あの者1人を殺しても戦の結果に影響はない。我々が東国を統治するときにあいつを召し使うこととしよう」
    と言うのです。ずいぶんと余裕がありますね。
     義朝軍は善戦しているものの、為朝軍もまた、全く退く気配を見せません。戦闘が思うように進まないため、義朝は高松殿に使いを派遣して、後白河天皇に
    「白河北殿に火をつけてよろしいか」
    と確認しました。上皇が住む宮殿に放火するとは、あまりに恐れを知らぬ発想です。
     ところが、信西の豪胆さは、義朝のそれを超えていました。信西は、
    「義朝は愚かである。わざわざ問う必要もなく火をかけるがよろしい」
    と答え、これを許可したのです。
     こうして、白河北殿は炎に包まれました。居館を失った崇徳上皇は慌てて逃亡し、戦況は一気に動きました。崇徳方の敗北が決まった瞬間でした。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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