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日本人の物語01715【戦国/東国/長享の乱】今川氏親の遠江侵攻

    戦国時代に入ったものの、まだまだ人気の時代とは言えないですね。やはり武田信玄や織田信長が登場しないことには、なかなかファンを取り込めない気がします。

     明応7(1498)年8月25日。「明応の大地震」が起こります。相当な規模の地震で、伊勢・志摩では1万人、静岡県内では2万6千人の溺死者が出たといいます。この地震で鎌倉の大仏殿が破壊されたり、大津波で浜名湖(静岡県浜松市)が海とつながったりしました。
     この地震をきっかけに、武田家の内訌は和解に至りました。武田信昌・信恵父子VS武田信縄で対立していたところ、信縄の家督継承が認められたのです。
     この地震が影響したかどうかは分かりませんが、明応8(1499)年10月、長享の乱の主役であった山内上杉顕定と扇谷上杉朝良もまた和睦することとなりました。二度目の和睦です。前線にやって来ていた古河公方政氏も、10月16日には古河に帰国しました。
     和解ムードはしばらく続き、明応9(1500)年は(佐竹・山入戦争を唯一の例外として)関東で大規模な戦が行われずに済みました。
     この間、今川氏親は叔父・伊勢宗瑞の援助を得て遠江国への侵攻を強めていました。遠江はかつて今川了俊の領国であったのに、その後守護の座を斯波家に奪われてしまった経緯があり、遠江奪還は今川家の長年の悲願となっていました。そういえば氏親の父・義忠も遠江侵攻で命を落としたのでしたね。
     しかし遠江守護・斯波義寛が黙ってみているわけがありません。義寛自身は尾張守護を兼ねているため尾張に在国していましたが、文亀元(1501)年3月、弟の寛元(とおもと)・義雄(よしかつ)を遠江に派遣しつつ、府中小笠原長朝と松尾小笠原定基に協力を求めました。さらに重臣の狩野寛親(かのうとおちか)を山内上杉顕定のもとに派遣し、
    「遠江に今川氏親が理由なく攻めてきた。この秋には必ず遠江を回復するつもりだ。貴殿も是非駿河への軍事行動について検討してほしい」
    と述べ、協力を求めました。依頼できそうな場所には全て依頼しているようです。
     6月18日には山内家から返事があり、斯波・山内同盟が無事に成立しました。
     しかしこの同盟は上手く機能しなかったようです。7月に今川氏親と伊勢宗瑞が遠江に出陣し、9月までに遠江国府である見附城(静岡県磐田市)が陥落したのですが、このとき斯波義寛は単独で今川軍と戦い、山内家は援軍を派遣してくれませんでした。
     一方、斯波義寛から同様の援軍要請を受けていた小笠原家はちゃんと出兵しました。たまたま8月12日に府中小笠原長朝が死去し、貞朝(さだとも:1461~1515)がこれを継いだのですが、これを機に府中小笠原貞朝と松尾小笠原定基は和解し、ともに今川包囲網に加わりました。和解のしるしに、貞朝の娘が定基の子・貞忠(さだただ:?~1550)に嫁ぐこととなりました。

    斯波義寛(しばよしとお)が「寛(とお)」の字をいろんな人に与えているわけですが、どうも「寛(とお)」で始まる名前は語呂が悪いですね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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