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日本人の物語00161【古墳】丁未の乱 穴穂部間人皇女の退座*

     さて、仏教を受容する蘇我氏が、仏教を排撃する物部氏を滅ぼしたわけですが、近年、物部氏の本拠である河内国渋川(現在の大阪府八尾市)に、7世紀前半に寺院があったことがわかり、「物部氏が仏教を弾圧した」というのは後世の創作であった可能性が出てきました。だったら、蘇我氏と物部氏の争いは仏教受容をめぐるものではなく、単なる権力闘争だったということでしょうか。
     まあ、日本書紀は大化の改新後に作られたものですから、その程度の脚色はあったかもしれませんね。
     丁未の乱が終結した後、蘇我馬子と厩戸皇子はそれぞれ、仏の加護に感謝して寺院を建立しました。
     蘇我馬子が建てたのは、法興寺です。法興寺は後に「飛鳥寺(あすかでら)」と名を変え、さらにその一部が奈良市に移転され「元興寺(がんごうじ)」となります。
     一方、厩戸皇子が建てたのは四天王寺です。現在の大阪市天王寺区ですね。
     さて、丁未の乱に関するエピソードで、紹介したいものがもう一つあります。
     故・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:?~622)という人物がいました。聖徳太子の母に当たる人です。
     丁未の乱のさなか、この皇女は争乱を避けて丹後へ行っていたのですが、乱が終結して飛鳥へ戻るに当たって、
    「この地域の皆さんにお世話になったので、自らの名『間人』を贈りたい」
    と述べました。この地域の名称を「間人(はしひと)」にしようというわけですね。
     ところが、住民らは「はしひと」という地名を名乗るのはあまりに恐れ多いとして、「間人」の漢字表記だけをもらって、読み方は「たいざ」と読むことにしました。
     穴穂部間人皇女が飛鳥に戻る(退座する)際にいただいた地名だから、「たいざ」というわけです。
     現在も京都府京丹後市には「間人(たいざ)」という地名があり、カニのブランドで有名です。
     私はたまたま家族で「かに道楽」を訪れた際に、
    「最高級の間人ガニ入荷」
    というポスターがあるのを見て、
    「まひとがに?」
    と読んでしまい、母から
    「これはタイザガニと読むのよ」
    と教わったのを覚えています。しかし母もその語源までは知らなかったようでした。

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    蘇我馬子が建てた飛鳥寺。創建間もない頃に作られた「飛鳥大仏」は必見。2026年5月5日撮影。
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    こちらが飛鳥大仏。寺が何度か焼失し、この大仏も傷ついたそうだが、頭部は当時のまま残っているという。2026年5月5日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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