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日本人の物語01503【室町/西国/大乱前夜】開戦間近

    もう斯波家と畠山家の家督争いの話は聞き飽きましたよね。

     徐々に追い込まれている畠山政長に対し、文正2(1467)年1月8日、決定的な人事が発表されました。政長が管領を解任され、後任として宗全派の斯波義廉が指名されたのです。また、畠山義就が政長に代わって越中・河内・紀伊の3ヵ国の守護に任命されました。宗全派の完全勝利です。
     徹底的に干された勝元派は、義就を追放すべく1月15日に御所巻(ごしょまき:将軍御所を取り囲んだデモ)を計画しました。しかし計画が漏れてしまい、逆に宗全派が将軍御所に軍勢を派遣してしまいました。
     そして宗全は義政に
    「政長は将軍の命令に逆らって万里小路の邸宅を明け渡そうとしません。その政長を、細川勝元が支援しています。これは上意に背き、反逆を図る行為です。奴らを退治しなければ天下は鎮まりません」
    と述べ、勝元・政長追討命令を発してほしいとまで要請しました。しかしいくら実力者の言いなりになる義政でも、追討令まで出すことは渋り、
    「諸大名が畠山家の私戦に参加することを禁止する」
    との命令を発しました。つまり「政長と義就だけで戦うように、他の大名たちは手出しするな」との指示です。
     なお、『応仁記』には
    「勝元側による御所巻の計画を察知し、宗全に知らせたのは日野富子である。」
    といった記述があるのですが、前述のとおり「富子は西軍方」という分類自体が信頼できないため、創作と考えられます。また、同じく『応仁記』には
    「宗全方は将軍御所を占拠して、敵方である義視を軟禁状態にした」
    との記述もありますが、将軍御所を占拠すれば義政も義視も富子も軟禁状態となるのは自然なことであり、宗全がこの時点でことさら義視を敵視していたわけではないでしょう。後に義視が東軍総大将に就任すること(後述)から逆算した記述と思われます。
     こうして政長は完全敗北し、管領も守護職も辞任させられて無役となりました。館も取り上げられたため、大人しく河内に帰国するほかないのですが、その際政長は思いもかけない行動を起こします。
     1月18日未明。政長は明け渡しを命じられた自邸に火を放って退去し、上御霊社(京都市上京区)に布陣しました。帰国せず、将軍が支持する義就と一戦交える覚悟を示したのです。
     義就方もまた戦闘準備に入りました。
     いよいよ応仁の乱の前哨戦、「上御霊社の戦い」が始まろうとしています。最初の対戦カードは畠山家の家督を争う従兄弟同士(政長VS義就)の対決です。

    そういえば高校日本史では、保元の乱(1156年)については皇族・藤原氏・平氏・源氏それぞれについて誰が東軍で誰が西軍なのか暗記させられるのですが、応仁の乱については「足利義視・細川勝元VS足利義尚・山名宗全」と暗記させられるだけで、斯波氏・畠山氏の対戦カードは覚える必要がありません。なぜなんでしょうね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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