
日本人の物語01722【戦国/東国/長享の乱】佐竹家の百年戦争終結
日本史上最長の戦いがやっと終わります。
文亀元(1501)年6月20日。山入氏義は大挙して、佐竹義舜が立て籠もる東金砂城を攻撃しました。山入軍があまりの大軍だったため、佐竹方はみんな死を覚悟していましたが、ここで奇跡が起こりました。突然落雷があり、大木が倒れたのです。山入方の兵の多くは巨木の下敷きになったり、逃げようとして谷底に転落したりしました。佐竹方は
「山入の兵を見よ。金砂権現に弓を引いた天罰だ」
と盛り上がり、山入勢は多くの死傷者を出して敗走していきました。
これは佐竹家に伝わる話で、盛りに盛られた奇跡の大勝利エピソードとなっていますが、まあ快勝したのは事実でしょう。
勢いに乗った佐竹義舜は大門城(茨城県常陸太田市)に兵を移らせ、山入方を討つ準備にかかりました。舅である大館城主・岩城親隆に声をかけ、援軍をもらう約束を勝ち取った上に、大門城主・滑川通繁(なめりかわみちしげ)は
「山入氏義は天罰を受けて死んだらしい」
との虚偽の噂を流し、山入方の士気を削ぎにかかりました。
永正元(1504)年3月15日。岩城家から大門城に3千人の援軍が届きました。十分な兵力を蓄えた佐竹義舜は、いよいよ敵の本拠である太田城に迫ります。
不利を悟った兵たちが次々と太田城から脱出を図り、山入勢の兵はどんどん減っていきました。山入氏義はなおも抵抗しますが、水を絶たれて落城し、息子の義盛(よしもり:?~1504)が戦死するほどの大敗を喫します。氏義自身は高部郷(茨城県常陸大宮市)に逃亡したものの、小田野義正(おだのよしまさ)の軍に包囲されて12月27日に自害しました。
異説では、子の義盛は太田城では討ち死にしておらず、茂木(栃木県茂木町)に逃れたものの、そこで勢力を回復できないまま死去したともいいます。
なお、山入方の天神林義益は国安城に立て籠もって抵抗を続けましたが、永正3(1506)年2月16日に大山軍・滑川軍に包囲されて自刃しました。
こうして山入家は遂に滅亡しました。佐竹家は百年に渡る内紛(山入の乱)を終え、ここからは一枚岩となって戦国の世へと繰り出し、更なる強敵と戦っていくことになります。
なお、佐竹家文書ではなぜか、山入の乱全般に渡って山入家に同情的な描き方がなされており、特に山入与義・祐義・義藤あたりは褒め言葉を並べて器の大きい人物として描いています。ところが、最後の当主・山入氏義に対してのみ厳しい見方をしており、佐竹義舜に比べて狭量な人物として描かれ、最後に佐竹本家が勝利したことを当然の結果であるかのように描いているのです。山入家を支持していた家臣が様々な伝説を書き連ねたものの、さすがに佐竹本家を褒めるところも必要だと思って一部を書き換えたのかもしれません。
佐竹家は常陸太田→水戸→秋田と本拠地を移していくため、秋田県の大名というイメージが強いかもしれませんね。ちょっと前まで秋田県知事を務めていたのも佐竹家の子孫でした。