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日本人の物語00464【平安末期】頼朝の鎌倉入り*

     千葉常胤と上総広常の対応ぶりは対照的なものでした。
     まず治承4(1180)年9月17日、千葉常胤は300騎を率いて頼朝軍に合流してきました。頼朝は
    「今後は常胤を父と思うことにする」
    とまで言って喜びました。このとき頼朝が33歳で常胤は62歳ですから、確かに頼朝にとっては父くらいの年齢です。
     一方、上総広常は2日遅れて9月19日にやってきました。なんと2万騎もの大軍です。上総広常は
    「こんなに連れてくるとは思わなかっただろう。頼朝もひれ伏すに違いない」
    とひどく尊大な態度で頼朝に挨拶をしました。
     頼朝からすると、これだけの大軍ですから内心では大歓迎だったに違いありません。しかし頼朝は嬉しそうな顔を全く見せず、広常の遅参を叱責しました。
     実はこのときまで広常は、頼朝の器を推し量るつもりで近づいており、「仕えるに値しない人物ならば隙を見て斬ってしまおう」とさえ考えていたのですが、この頼朝の態度に「大将軍の器だ」と感服し、本気で仕えることを決めたといいます。
     頼朝は隅田川を越えて江戸に入りました。さらに味方を増やすため、9月28日、石橋山で敵対していた武将たちに
    「平家に与したことは不問にするから、今からでも令旨に従え」
    と呼びかける文を送ります。これを受けて、10月4日、河越重頼、江戸重長、畠山重忠の3人が服属を決めました。
     河越・江戸・畠山は、三浦義澄にとっては父の仇に当たります。義澄にとっては穏やかでない気持ちがあったでしょうが、頼朝は
    「忠義を思う者は憤りを残してはならない」
    と義澄を戒めたそうです。
     10月6日。大軍を引き連れた頼朝は、鎌倉に入り、ここを本拠と決めました。鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害で、攻めづらく守りやすいことが決め手だったといいます。その割には、鎌倉末期から室町前期にかけて鎌倉は何度も何度も陥落してしまうのですが……。
     鎌倉において頼朝はこうして鎌倉幕府の基礎が固まっていきました。頼朝は鎌倉を拠点として、弟たちを平家打倒の将軍に据え、遠隔操作しながら戦いを指揮していくこととなります。

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    鎌倉を見下ろせる源氏山公園の頼朝像。駅からかなり遠い上に標高も高いので、ここまで到達するのは軽めのハイキング。2022年9月24日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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