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日本人の物語01708【戦国/東国/長享の乱】三浦家の寝返り

    これまた伝説上の話と史実とが虚実ないまぜになっている話です。

     明応3(1494)年9月5日。越後上杉房定の指示を受けた越後国人の発智氏・楡井氏が上越国境付近の越後国上田荘(新潟県南魚沼市)に到着しました。いつでも関東に攻め込める状況です。
     扇谷家に脅威が迫る中、更なる事件が起こりました。扇谷上杉定正にとって心強い味方であった三浦時高が、明応3(1494)年9月23日、養子の三浦道寸に居城の新井城(神奈川県三浦市)を攻められ、自害に追い込まれたのです。
     扇谷家に忠誠を誓う家臣・三浦時高は、実子に恵まれなかったため主家・扇谷家から道寸という養子をもらっていました。その後、晩年になって実子・高教(たかのり)が産まれたため、時高は養子の道寸を廃して高教を後継者に据えようとしました。これに反発した道寸が、母の実家である小田原の大森家と組んで養父・時高を攻め滅ぼしたのです。
     しかも、定正が太田道灌を謀殺したことで、扇谷家臣の中で定正の評判は地に堕ちてしまいました。時高はそれでも定正の味方となることを表明した貴重な家臣だったのですが、今や時高は殺され、その子の道寸は扇谷家に刃を向けることを表明したのです。
     以上の話は『鎌倉九代後記』や『北条五代記』に載っている話ですが、史実はどうも異なるようです。そもそも三浦時高は寛正3(1462)年に隠居しており、それ以降史料には登場しないので、明応3(1494)年時点で生きているとは考えにくい人物です。
     また、古文書によると三浦時高の養子は三浦道寸ではなく三浦道含という人物です。道寸は実際にはその道含の息子と考えられています。
     さらに、01687回で述べたとおり三浦道含・道寸父子は定正による道灌殺害事件を見て、定正を見限って山内家に従属するようになりました。つまり史実では、三浦家はもっと早い段階で山内方となっており、父子間のクーデターを経て山内方に寝返ったとする話は創作エピソードのようです。
     なぜこのような創作がなされたのでしょう。
     想像するしかないのですが、この後三浦道寸は伊勢宗瑞(北条早雲)の最大の敵として立ちはだかります。後で起こる伊勢宗瑞による三浦道寸討伐を正当化するために、「三浦道寸が父殺しの大罪を犯した悪者である」とのストーリーが捏造されたのではないでしょうか。ついでに、その父殺しは大森氏の援助を得て行われたことにして、大森氏をも悪者と設定したものと思われます。
     史実と伝説とで時期が異なるにせよ、三浦家が扇谷方から山内方に寝返ったのは事実です。扇谷家にとって頼みの綱は伊勢宗瑞だけとなりました。

    三浦道寸という人間の実像には、今となっては迫りづらい状況です。15世紀の出来事だというのに、鎌倉時代よりも史実を特定しづらいとは困ったものです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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