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日本人の物語00723【鎌倉後期】文保の和談

     高時が執権となって間もなくの文保元(1317)年3月30日、鎌倉から京に派遣された御家人・摂津親鑑(せっつのちかあき:?~1333)が、朝廷に両統間の話し合いを提案してきました。今後の皇位継承について議論したいというのです。
     花園天皇は、幕府から譲位を迫られるのだろうと恐れ、日記に
    「もはや天運であろう。不徳な私が既に十年も在位している一方、新院(後伏見)も後二条院もともに十年に及ばなかった。愚かな身の私がこのお二人より長いわけで、誠に過分のことだ。なぜ嘆くことがあろうか」
    と記していますが、嘆く気持ちを押し殺してこう書いたのでしょう。
     4月10日、摂津親鑑が仲介した話し合いの場で、後宇多法皇(大覚寺統)が
    「花園天皇(持明院統)から尊治親王(大覚寺統)に譲位いただきたい」
    旨を申し入れました。しかし、花園天皇の父・伏見上皇がこれを拒否します。
     間に立った摂津は、
    ・まずは花園天皇から皇太子・尊治親王に譲位すること
    ・今後は十年単位で両統が交代で天皇に即位すること
    ・次の皇太子は大覚寺統の邦良親王とし、その次は持明院統の量仁親王(かずひとしんのう:後伏見天皇の子:1313~1364)とすること
    を提案し、両統が両立できるよう働きかけました。
     ここでいう「十年交代」というのは、必ずしも一人の天皇が十年在位するという意味ではなく、二人合わせて十年でもよいようです。例えば「五年×2人」で十年在位したら、反対側の統に皇位を譲るという趣旨ですね。
     この話し合いを「文保の和談」といいます。かつては、この摂津の提案を両統が承諾し、決着がついたと考えられていましたが、近年の研究では
    「幕府側が提案をしただけで、両統ともそれに応じず、話し合いは決裂した。摂津は収穫のないまま空しく鎌倉へ帰って行った」
    と考えられています。
     幕府の調停にも応じず、皇位を守り抜いた持明院統でしたが、文保の和談から半年後の9月3日、持明院統の中心人物である伏見上皇が崩御しました。重鎮を失った持明院統は、幕府からの度重なる譲位要請を断り切れなくなってきました。
     いよいよ南北朝動乱の主役である後醍醐天皇が舞台に躍り出る瞬間がやって来ます。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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