
日本人の物語01706【戦国/東国/長享の乱】佐竹家と岩松家
水戸市内の古本屋で佐竹氏の詳しい本を入手した(Amazonでは売っていない希少なもの)ので、佐竹氏についてやけに詳しい通史となりました。
両上杉の争い(長享の乱)が一旦和睦したところに、時ならぬ伊勢盛時による伊豆侵攻が起こったわけですが、その直後に
・常陸国の佐竹家の内紛
・上野国の岩松家の内紛
が和睦という形で決着したので、この2点の話題を取り上げておきたいと思います。
佐竹家の内紛については、山入義藤・氏義父子が佐竹義舜を追放し、太田城を乗っ取ったところまでお話ししました。その後の山入家については情報が錯綜しており、
「山入義藤の死に前後して、山入氏義は勢いを盛り返してきた佐竹本家の義舜の攻撃を受け、太田城から棚谷城(茨城県常陸太田市)に逃れた。そこも落とされ、さらに奥地である山方城(茨城県常陸大宮市)に逃れた」
との記録がある一方で、
「明応2(1493)年又は3(1494)年の10月、山入氏義と佐竹義舜は大館城主・岩城親隆の仲介で和睦した。和睦の条件として氏義は孫根城に手を出さないこと、氏義は引き続き太田城主として活動することが取り決められた」
という相矛盾する記録もあるのです。
もし前者の記録が正しければ義舜は太田城主に返り咲いているはずですが、義舜が太田城主として発給した文書が残っていないため、恐らく後者の方が正しいのでしょう。どうやら山入家と佐竹本家の「和睦」とは、事実上は佐竹本家が山入家に降伏するのと同様の契約だったようです。
一方、岩松家の動向も見ていきましょう。
上杉軍の中で成氏方に対する最前線基地となっていた金山城(群馬県太田市)の岩松家純は、追い詰められて成氏方に寝返りました。その際、家純の子・明純は寝返りに反対して山内上杉氏の陣中へ出奔したため、家純は明純を勘当したのでしたね(01614回参照)。
このとき、明純は幼い息子・尚純(ひさずみ:1461~1511)を連れて鉢形城(埼玉県寄居町)に入ったのですが、岩松家家宰の横瀬国繁(よこせくにしげ:?~1488)・成繁(なりしげ)父子が尚純を密かに鉢形城から連れ出し、対面を拒む家純を粘り強く説得して、尚純を金山城に迎え入れることに成功しました。子を失った家純は、横瀬父子のおかげでどうにか孫を取り戻すことができたのです。
明応3(1494)年4月22日、その岩松家純が死去し、孫の尚純が家督を継ぎました。岩松家は本拠の金山城主の地位を失うことは辛うじて避けられたといえます。
横瀬家の金山城(群馬県太田市)は日本百名城の一つなので、スタンプ集めのために行かねばならないのですが、まだ行けていません。