
日本人の物語01729【戦国/西国/京兆専制】船田合戦 石丸逃亡
石丸は実力もありませんが運もないんですよね。源平合戦のときの源行家を思い出します。
美濃の最高権力者である斎藤妙純に対抗するにはどうすればよいのか。石丸利光は頭をひねり、妙純の傀儡に甘んじている守護代・斎藤利藤を利用しようと考えました。利藤は、本来美濃守護代に任命されたのは自分なのに、実質的な権限を弟の妙純に握られていることに不満を感じていたのです。かつて妙純の命令で利藤と戦ったこと(文明美濃の乱)もある石丸が、今度は妙純に対抗するため利藤の味方になるとは全く節操のない話です。
明応4(1495)年5月2日。石丸利光は船田城に利藤の孫・斎藤利春(さいとうとしはる:?~1495)を迎えました。妙純に対抗するための客寄せに使うつもりだったのでしょう。ところが運悪く、利春は6月6日に風邪をこじらせて急死してしまいます。
弱った石丸は、6月8日に利藤の末子・日運(にちうん:1484~?)を船田城に迎えました。6月11日には土岐成頼の四男・元頼も船田城にやって来ました。
役者が揃いました。このとき石丸は斎藤利藤からの信頼の証として斎藤の苗字を与えられ、「斎藤利光」と名乗るようになりましたが、歴史家の多くは石丸利光と呼び続けているので本稿でも石丸で通します。
苗字も変わって勢いに乗った石丸は、6月19日に同族の石丸利定(いしまるとしさだ:?~1495)を派遣して妙純方の安養寺と加納城を襲撃させました。しかし斎藤家家臣・長井秀弘(ながいひでひろ)から思わぬ反撃に遭い、利定を含め多くの死者を出して大敗しました。
この斎藤・石丸紛争は周辺国も巻き込みました。尾張ではかねてより岩倉織田寛広(旧西軍方)と清洲織田敏定(旧東軍方)が争っていましたが、6月22日、旧西軍同士の縁で岩倉織田寛広が妙純方に援軍を出したのです。
7月1日に妙純と石丸の戦いが再発しました。妙純方は長井利安(ながいとしやす)・利綱(としつな)ら3千人。石丸方は石丸利信(いしまるとしのぶ:?~1495)ら千人。数の差は明らかで、石丸軍は大将の石丸利信を含め百名以上が戦死する大敗を喫しました。
7月5日。やや遅れて清洲織田敏定が石丸方を救おうと出陣しましたが、岩倉織田寛広に阻まれて身動きできずにいる中で、病没しました。
もはや勝ち目がないと悟った石丸は、7月7日、居城の船田城に火をかけて墨俣(岐阜県大垣市)へと逃亡していきました。さらにそこから近江へ逃亡しましたが、従う兵は僅か500騎だったといいます。
船田合戦は決着がついたかに思われましたが、石丸は近江で味方をかき集めて美濃を奪回しようと頑張ります。まだまだ諦めません。
せっかく名乗りを変えたのに、歴史家の誰もそれに応じた呼び名で呼んでくれないのはなぜなんでしょうね。斎藤義龍なども苗字を一色に変えたのに、誰もそう呼ばないですね。