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ショパンは、もう現れないのか──名曲が残るための意外な条件

    音楽が好きで、詳しくはないが、クラシックを聴くこともある。
    例えば、ショパン。だいたい同じ曲を聴いている気がするが、そんな中で時折気になることがある。

    今、ショパンのような作曲家はクラシック界に存在しているのだろうか。

    あるいは今の時代に、ショパンが生まれたとして。
    その人は、本当に「ショパン」として見つけられるのだろうか。

    私はクラシックの専門家ではない。小中学生のころからクラシックは聴いていたし、ピアノやクラシックギターに触れ、吹奏楽やオーケストラにパーカッションで関わったこともある。
    ただ結局、今まで続けてきた楽器はドラムで、日常的に聴く音楽もクラシック以外の方が多い。

    それでも、この問いはずっと引っかかっていた。

    クラシックに作曲家はいて、新作は出て、現代音楽もある。
    その他のジャンルでも様々な音楽がある。
    むしろ音楽の種類や量だけでいえば、今の時代は昔の比にならないだろう。

    ただその中に、ショパン的な人物がいるかと言われたら、やっぱり思い浮かばない。

    これは、「昔は天才がいたが、今はいない」という話ではない。

    さらに付け加えると、ここでいうショパンは、もちろんショパン個人だけのことではない。

    ベートーヴェン、ショパン、リスト、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフのように、作品が演奏会にも教育にも入り、専門家にも一般の聴衆にも共有され、何世代にもわたって演奏家に弾かれ続ける作曲家たち。

    ここでいう「ショパン」は、そういう存在の象徴である。

    もう少し正確に言えば、問いはこうなる。

    なぜ現代に、演奏会にも、教育にも、家庭にも、専門家の世界にも残っていくような「共通の名曲」が、今のクラシックでは見えにくいのか、ということだ。


    ①ピアノが未来を作るメディアだった時代

    まず、ショパンの時代、ピアノは今の私たちが思うような「完成されたクラシック楽器」ではなかった。

    現代のピアノといえば、黒いコンサートグランドを思い浮かべる人が多いかもしれない。それはホールの中央に置かれ、過去の名曲を高い精度で再現する、完成形に近い楽器のように見える。

    一方、ショパンの時代のピアノは、まだ発展途上にあった。音量も、タッチも、響きも、現代のピアノとは違っていた。ショパンが好んだPleyelや、同時代のÉrardのピアノは、今のSteinwayやYamaha、Fazioliのように、巨大なホールを鳴らし切る近代的なコンサートグランドとは別の性格を持っていた。

    ということは、ショパンは、私たちが現在聴いている「現代ピアノ」のために曲を書いていたのではなく、当時のピアノの可能性の中で、自分の音楽を生み出していたのではないか。

    あるいはショパンの時代のピアノは、過去の名曲を保存する楽器というより、未来を作るためのメディアだったとも捉えられる。

    つまりピアノは単なる楽器という枠を超えて、家庭娯楽、教養、作曲ツール、一人オーケストラ、出版メディア、サロンの中心、教育装置、スター演奏の媒体といった複数の役割を担っていた。

    現代でたとえるなら、少し乱暴だが、DAW、家庭用オーディオ、動画メディア、教育アプリ、ライブ楽器が一体化したようなものだったのかもしれない。

    もちろん、当時のピアノが現代のデジタルメディアと同じだったという意味ではないけれど、ピアノがその時代の音楽的可能性をかなり強く集約していた、という意味では、この比喩はそれほど外れていないと思う。

    作曲や演奏のための楽器であるだけでなく、楽譜出版、教育、家庭、サロン、都市の聴衆までをつなぐ中心にある存在だった。

    だから、ショパンを単に「ピアノが得意だった天才」と捉えるだけでは、この問いには近づきにくい。

    彼の才能は、単に個人として在ったのではなく、19世紀のピアノ文化という器の中で、初めて「ショパン」として見える形になったのではないか。

    ②何が「名曲」を名曲にするのか

    もちろん、作品そのものに力がなければ残らない。
    ショパンのノクターンやエチュードやバラードには、今なお人を引きつける強さがある。

    けれど、それだけで曲が二百年近く生き続けるのだろうか。

    曲が現代まで残る過程としては、
    楽譜が出版され、音楽院や教師が教材として扱う。
    発表会やコンクールで弾かれる。
    録音され、批評される。
    名演奏家が取り上げる。
    現代ではYouTubeでも聴かれる。
    世界中の誰かが、聴いて、弾いてつながる。

    そうやって曲は、何度も現在に戻されるのではないか。

    名曲は、ただ残ったから名曲なのではない。
    残される仕組みに乗り続けることで、名曲になる。

    ③クラシックは、保存と再演の文化である

    ショパンだけではない。バッハでさえそうだった。

    ショパンの時代、バッハは鍵盤教育や一部の音楽家の間ではもちろん継承されていた。

    けれど、今のような「西洋音楽史の中心にいる巨大なバッハ」という位置は、生前からそのまま存在していたわけではない。
    後世の再演、出版、研究、教育によって、バッハは何度も現在に戻されてきた。

    つまり、クラシックには作品を保存する非常に強い仕組みがある。

    楽譜によって、作品は演奏者の身体を越えて残る。
    教育によって、何世代にもわたって弾き継がれる。
    録音によって、解釈は比較され、蓄積される。

    これはクラシックの大きな達成である。
    過去の作品を保存し、読み直し、再演する文化として、クラシックは驚くほど高度に成熟した。
    ただ同時に、その仕組みは、新しい作品よりもすでに名曲になった作品に時間と才能が集中しやすい形とも言える。

    バッハをどう構築するか。
    ベートーヴェンをどう弾くか。
    ショパンをどう歌わせるか。
    ドビュッシーの響きをどう作るか。
    ラヴェルの透明さをどう再現するか。

    現代のクラシック演奏家は、単に楽譜通りに弾いているわけではなく、過去の作品を読み、比較し、解釈し、自分の身体を通してもう一度現在に出現させている。

    これは創造性のない行為ではない。
    むしろ、極めて繊細な創造であり、ものすごく高度な文化である。

    ただし、その創造性は「新しいショパンを書く」方向ではなく、「すでに存在するショパンをどう現在に戻すか」という方向に強く伸びている。

    ここに、現代クラシックの豊かさと難しさがある。

    クラシックの中心的な演奏文化や教育制度は、過去作品の保存、解釈、再演に非常に適したものになった。

    それは巨大な達成であるが、ショパンの時代にあったような、さまざまな要素が一つの新しい表現へ向かって集中する配置とは違う。

    もちろん、20世紀以降にも重要なクラシック作品は創作されている。名曲が存在しない、と言いたいのではない。

    ラヴェルやプロコフィエフ、リゲティ、ペルト、ライヒのように、専門家に評価され、録音され、教育や演奏の場で取り上げられ続けている作品もある。

    ただ、ショパンのノクターンやエチュードのように、演奏家、子どもから音大までのピアノ教育、コンクール、演奏会、録音、家庭を広く横断する規模の共通レパートリーにはなりにくくなった。

    ④楽譜で残る音楽、録音で残る音楽

    20世紀以降、音楽の前線はクラシックの演奏会場だけではなく、ブルース、ジャズ、ロック、ポップス、ヒップホップ、映画音楽、ゲーム音楽、電子音楽へ広がっていった。

    そしてそれらは、録音、マイク、アンプ、レコード、ラジオ、テレビ、映像、配信といったメディアと結びつきながら成長した。

    これらは、音楽がどのように記録され、広がり、古典化していくかに大きく関わっている。

    ここで重要なのは、保存文化はクラシックだけのものではないということだ。

    一般的にジャンルは成熟すると古典を持つ。
    ジャズ、ロックには、すでに古典がある。
    ヒップホップ、ポップス、映画・ゲーム音楽にも、これからますます古典が作られていくだろう。

    ショパンは、別の演奏家が弾いても「ショパンの曲」である、と言いやすい。

    しかし、例えばジミ・ヘンドリックスでもそうなるだろうか。
    誰かが同じ曲を弾いても、それはあくまでコピーであって、彼そのものではないと感じる人は一定数いる。

    マイルス・デイヴィスも、ジョン・コルトレーンも、ビートルズも、近いことが言える。

    そこには、曲だけではなく、音色、指、アンプ、歪み、フィードバック、ステージ、録音、身体性が深く結びついている。

    昔と違って、今は楽譜だけが残るのではない。
    声、音色、映像、スタジオやライブの空気が残せるようになった。時代のメディアそのものが、作品の一部として残ることが普通になった。

    私自身、ドラムを続けている中で、音楽には譜面に書き切れない部分がかなり大きいと感じることがある。同じフレーズでも、叩く人によって重さも温度もまったく違う。タイム感、音色、間、身体の癖、バンド全体をどう動かすか。そういうものは、楽譜だけではなかなか残らない。

    そうしたものまで記録として残せるようになったことは、20世紀以降の音楽を考えるうえで避けて通れない。

    もちろん、クラシックも録音によって大きく変わった。
    ホロヴィッツ、アルゲリッチ、ポリーニのような演奏家たちは、録音なしには今のような形では共有されなかった。

    逆に、ジャズやポップスにも楽譜や理論や教育はある。
    リアルブック、トランスクリプション、コード譜、バークリー的理論。
    近代の録音文化の中にも、教育と保存の仕組みはある。

    だから、これは単純な二項対立ではない。
    ただ、古典化の中心は少し違う。

    クラシックは、楽譜と教育を中心に古典化しやすい。
    ジャズやロックやポップスは、録音された音色、演奏、身体性、機材、映像を中心に古典化しやすい。

    ここに、ジャンルごとの「残り方」の違いがある。

    若いジャンルは、更新の前線になりやすい。
    しかし、名盤が生まれ、巨人が生まれ、教育され、コピーされ、批評され、再演されるようになると、そのジャンルは少しずつ保存文化を持ちはじめる。

    クラシックは、それを早く経験したジャンルだった。
    だからこれは、「クラシックだけが老いた」という話ではない。

    音楽ジャンルが成熟し、過去の巨人を持ち、教育制度と保存制度を整えていくときに起きる構造変化の話である。

    ⑤今、ショパンはどこにいるのか

    では、現代のショパン的なものはどこにあるのだろう。

    おそらく、それはクラシックピアノの中だけには見えにくくなっている。

    かつてショパンに集中していた機能は、今では分散しているからだ。
    作曲家、演奏家、編曲家、プロデューサー、録音エンジニア、バンド、シンガーソングライター、DJ、トラックメイカー、映像作家。
    19世紀のピアノ文化では一人の作曲家=演奏家に集まりやすかったものが、今の音楽では、複数の役割、メディア、ジャンルに分かれている。

    例えば、映画音楽では、ジョン・ウィリアムズ。久石譲。ハンス・ジマー。そういう音楽家の名前が思い浮かぶ。

    映画音楽は、クラシック教育の外側でありながら、旋律が記憶され、演奏され、編曲され、世代を超えて共有されるというクラシック的機能の一部を持っていると感じる。

    ただし、彼らを単純に「現代のショパン」と呼ぶのは違う。

    彼らの音楽は、ショパンのピアノ曲のように、アマチュアからプロまでが同じ楽譜を弾き継ぐ構造とは異なり、映画、録音、映像、物語、時代の記憶と一体になっている部分も大きい。

    ショパンが担っていた機能は、消えたのではなく、分散したのだ。

    だから、現代のショパンを探すなら、クラシックピアノの棚だけを見ても見つかりにくいのだろう。

    ⑥世界は、もう別の形をしている

    なぜ今、ショパンは現れないのか。
    それは、現代に才能がないからではない。

    ショパンが生まれた時代には、ピアノ、サロン、出版、教育、家庭、都市文化、聴衆が、まだ新しい表現を受けとめる器として存在していた。

    それらがピアノという楽器を中心に強く結びついていた。
    しかし現代では、その機能は分散している。

    そしてクラシックは、過去の音楽を驚くほど高精度に保存する文化として成熟した。

    ただ、その成熟の中で、音楽がその場で生まれ、時代の新しい器を作り、聴衆と反応し合いながら広がっていく余白は、以前より小さくなったのかもしれない。

    だから問題は、才能ではなく、ショパンが現れないことでもない。
    ショパンを見える形にしていたその時代の器が、もう同じ形では存在していないのである。

    ショパンは、ただ一人の天才だったのではない。

    彼をショパンとして見えるようにした世界があった。
    そして今、世界は別の形をしている。

    100年、200年後に聴かれる今の音楽は、未来から見てどのような古典になっていて、そこにショパンのように見える人はいるのだろうか。

    そんなことをたまに想像しながら、私はこれからも音楽を聴き続けるのだろう。





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    医療職。音楽・文化・日常を、少し違う角度から言葉にしています。

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