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【短編連載】「猫は重くなかった」第6話:最後

    「高田さん。お子さんがいるんでしょう? 隠しておられた息子さんが。」
    拍子抜けした呼吸と瞳孔の拡張。当惑だった。私は食卓の横にあった車椅子を引き寄せて私の横に置いた。
    「今回の件には、まだ解決されていない疑問が一つあります。ええ、この車椅子のことです。あなたが奥さんを殺害したのが月曜日だとするなら、ここ三日間、この車椅子に乗っていたのは一体何だったのか。恥ずかしながら私は、車椅子に乗っていたのは遺体ではないか、という妄想を抱いたりもしました。ですが、絶対にそんなことはあり得ません。なぜかと問われれば答えは簡単です。私が聞いたうめき声は、確かに生きた人間が出した声でしたから。スピーカーを利用することも不可能です。あれほどはっきりとした声を録音して流すなら、よほどのミキシング作業をしてもノイズが混じって聞こえたはずだ。そしてもう一つ。外部スピーカーを使うならBluetooth機能を利用しなければならないでしょうが、未だにガラケーを使っているあなたが、そんな複雑で金のかかる方法を思いついたとは思えませんからね」
    「......余計な邪推はやめろ。家内はワシが刺し殺したんだ。」
    高田現蔵の手の甲に血管が太く浮き上がった。彼の顔が急激に強張った。
    「ええ、あなたは確かに私の言葉に同調してそう言いましたね。ですがね。それは全てでっち上げた話に過ぎません。ええ、あいにく私がついた嘘は二つだということです。猫を殺した方法とあなたの動機です。特に動機に関してはあなたが望む通りに継ぎ接ぎしたに過ぎません。あ......、あまりに急すぎましたか。理解できないという表情ですね。例えば順序の問題ということです。人を刃物で刺し殺す。死んだ人を刃物で刺す。この二つの間にはどんな違いがあるかご存じですか? 簡単です。死んだ人は傷ができても塞がらないんです。だから死後にできた傷はすぐに判別できます。奥さんの遺体は綺麗でしたから。豆腐に切り込みを入れたかのように。」
    「耳が腐っとるのか! ワシは今、ワシが刺し殺したと言ったんだ!」
     高田現蔵がリクライニングチェアの肘掛けを叩いた。私は首を振った。そして彼の鈍い手を指差して言った。
    「不可能です。そんな手では暴れる人を綺麗に刺すことはできません。もしや挙動もできない老人だから暴れることもできなかった。そんな言い訳も話になりません。それほどまでに行くなら奥さんは普段から経管栄養までつけていたでしょうから。奥さんは間違いなく歩けないだけで、匙を持ったりする程度の筋力はあったはずです。また寝ている人を刺した。それも話になりません。暴れることもできず即死したと言うには傷がどれも浅かったですから。つまり、あなたは奥さんを刺し殺したのではなく、何らかの理由で死んだ奥さんを刺したということになります。」
    「ワシが殺したんだと言っとるだろう......!」
     高田現蔵の言葉の端に空咳が混じった。私は携帯電話を取り出し、110番にメール通報を入れた。およそ5分。警察が到着するまではそれくらいかかるだろう。
    「何らかの理由。それが何なのか。そして奥さんの代わりに車椅子に乗っていたのはまた何だったのか。菜園を掘っていると今回の事件に関するキーワードが頭の中を満たしました。三度の流産と急な奥さんの引きこもり、20年前の斉藤さんとの争い。そこから派生した摩擦。その他の状況証拠。......ああ、斉藤さんは泣き声を勘違いしたんだな。そこからそう繋がったんだな。……いえ、高田さん。あなた方の三番目の子供は死なずに生きていたんです。猫鳴き症候群ねこなき・ながくいきられないを患っている、あなたが隠してきた息子が。そしてその息子が今まで亡くなった奥さんの代わりに車椅子に乗っていたんです。違いますか、高田さん。」
     私は顔を上げた。高田現蔵は何かを言おうとするように唇をパクパクさせた。しかし結局出てきた彼の答えは反論ではなかった。「ワシが殺した。」という掠れた一言。聞いていると一緒に喉が焼けるような気分だった。私は乾いた唾を飲み込み、話し続けた。
    「......奥さんの口の中に吐瀉物が残っていました。睡眠薬の過剰服用で死亡した時によく現れる症状です。嘔吐による窒息死だったのでしょう。3日前には黒い袋から黒猫が出ましたし。目や鼻のように柔らかい部位だけ食いちぎられたのを見るに、餌の競争に負けたそいつが奥さんの顔を食ったんだと思います。偶然にも吐瀉物に残った睡眠薬の成分で気絶をしたんでしょう。......高田さん。普段から人知れず猫の死骸を片付けてこられたんですね? 遺体に慣れていたから、その黒猫も癖のようにただ入れてしまったんでしょう。美観のためか、何のためかは分かりませんが。」
    「ワシが殺した。家内も猫もワシが、全部ワシが......。」
    高田現蔵の頭が少しずつ床へ落ちていった。私は首を振った。
    「いいえ、処理場の猫たちも外傷はありませんでしたよ。口から血を吐くのは内臓が破裂したということですが、低速でロードキルに遭った時の特徴でもあるんですよ。この町は道が狭いですからね。だから奥さんの遺体を発見するまでは、あなたと猫の間にどんな関連点があるのか全く見当がつかなかったんです。だから猫の屠殺も実は先入観から生じたものでしょう。よりによって正月に猫の死骸が多く発見されるという証言も、単純に流動人口が多くてそうなっただけだし。あなたが本当に手当たり次第に屠殺をする人間だったなら、黒猫、あいつも屠殺されていなければ辻褄が合わないじゃないですか。」
     斉藤昌子の家に明かりがついた。窓越しに差す逆光に高田現蔵の表情が消えていった。沈黙だった。私は唇を噛み締めながら席から立った。血が出た。苦かった。
    「......ここからは完全な推論の領域です。あくまで最も可能性が高い話であって、今すぐに真実は分からないという話です。それでも私は敢えて推理をしてみようと思います。なぜあなたは殺人者にならなければならなかったのか。それに関して。」
    重い足取りは固く閉ざされた居間の襖の前で止まった。
    コン、コン。
    二度のノック。古びた木材の音が家の中を響かせた。
    「20年前、あなたと奥さんは二度の流産の末に愛の結実を結んだはずです。ですが年齢が原因だったのでしょうか。息子さんは猫鳴き症候群という障害を抱えて生まれました。お二人は自らを責め、恨んだことでしょう。子供がこれから耐えなければならない冷たい視線と蔑視。その重さをどうして推し量ることができたでしょうか。お二人は決心されたはずです。外に子供を出すくらいなら生きている間この中だけでも幸せに暮らせるようにしてやろうと。だから奥さんは家の中に閉じこもって子供の世話を始め、あなたは家の外で黙々と生計を維持したのでしょう。そして程なくして斉藤さんが引っ越してきました。優しく挨拶も交わし、品物まで配って......。第一印象は悪くなかったはずです。斉藤さんが息子さんの泣き声を猫の鳴き声と勘違いするまでは。苦労して授かった子供を道端を走り回る獣と比較するなんて、あなたはらしくもなく瞬間カッとなってしまった。斉藤さんとの葛藤はそこから始まったんですね。ご存じの通り斉藤さんは猫を家族のように思い始めた頃です。そんな斉藤さんから見て、あなたは家族を嫌う人間だという先入観ができてしまったのでしょう。ですが斉藤さんのそんな誤解にもかかわらず、昔からあなたを見てきたおしゃべりな隣人たちは、あなたがそんなにおかしい人じゃないってことぐらい知っていました。その状態が維持されればどれほどよかったでしょうか。無情にも歳月は流れてしまいました。5年前。来るべきものが来てしまったんです。ええ、認知症のことです。息子さんは期待寿命をはるかに超えて安定期に入りましたが、あらゆる逆境を経てきた奥さんはもう健康が悪化する一方でした。どうあれあなたが本業を辞めるのは避けられない状況になりました。それでもあなたは生きることを希望しました。だから生計を維持しようと始めたのがシルバー人材センターの仕事でした。そうしてまた時間が過ぎること2年。奥さんはもう挙動すらできない状態になりました。認知症の末期に入ったのです。正気に戻る場合も数えるほどだったでしょう。それでもまだ幸いな点はありました。高田さんには、立派に育った息子さんがいたからです。」
    待っても反応はない。私は再度ノックをしてみた。
    コン、コン、コン。
    三度の木鐸の音。中からはようやく小さく寝返りを打つ音が聞こえた。
    「......高田さんは息子さんを信じて席を外してこられたはずです。シルバー人材センターを始めて以来ずっとそうしてきたから、その日も問題ないと思っておられたのでしょう。ですが3日前、事は起きてしまいました。勤務を終えて家に帰ると奥さんが嘔吐をしたまま亡くなっていたのです。それがベッドの上なのか、食卓なのかは分かりません。ただ重要なのは、事故当時家の中に息子さんが一緒にいたということです。あなたは決めなければなりませんでした。今すぐ通報をするか、それとも奥さんの死を隠すべきか。......やがてあなたは通報をしないことにしました。いや、できなかったんです。怖かったからです。ある人は障害を持つ息子が奥さんを殺した、またある人は障害を持つ息子のせいで奥さんが自殺したのだ。息子さんはあらゆる非難と嘲笑の対象になるのが火を見るよりも明らかでしたから。それでは今まで奥さんと耐えてきた努力が全て水の泡になってしまうではありませんか。」
     襖が開いた。中からは頭が小さく細長い顎を持った男が歩いて出てきた。小さな体躯に足が曲がり、歩き方には力がなかった。猫鳴き症候群の典型的な特徴だ。
     ぼんやりした表情の男は私を見つけるとビクッと驚いた。「あうー」といううめき声が一度。私は男に会釈をして再び席に座った。男はよろめきながら高田現蔵の横に座り、身を寄せた。濃い眉を見ると紛れもない親子だった。
    「あなたは決心したはずです。父親としていっそワシが罪人になって耳目だけでもそらそうと。そしてすぐに台所から包丁を持ってきて奥さんの体を刺したのでしょう。悪意が満ちているように見えるよう、肋骨と腹部を何度も刺したんでしょうね。ならばもうあなたに残った問題は二つだけです。睡眠薬の成分を消すことと殺人の名分を作り出すこと。あなたは一つ目の問題を解決するために奥さんを菜園に埋めました。日が暖かくなれば内臓が腐るから、その時までだけ息子さんを身代わりに使おうという考えだったのでしょう。」
     男が「あうー」という声を出して私に手を伸ばした。私は右手を振った。なかなか口角が上がらなかった。
    「......名分は解決しやすかったはずです。ちょうど隣の家と仲が悪かったですから。そうです。あなたは斉藤さんを筆頭に悪人というイメージを構築しようとしたんです。家父長的で時代錯誤であり、暴力的な気質を隠した悪人。そんな極悪の人間像として。もうあなたがすべきことは『みどり』に座って大人しく時間を潰すだけです。じっくりと、そして徐々に、悪人というイメージを積み上げていくのです。ですがそこで問題が生じ......。」
    「やめろ。もうええ。もうやめてもええ。あんたの言う通りだから、もうやめてもええんだ。」
     高田現蔵が目を閉じた。皺の寄った目が震えた。私はじっと座って彼の答えを待った。しばらく。しばらくが過ぎてようやく、彼は押し殺していた息を少しだけ吐き出すことができた。
    「......あんたの言う通りだ。そこで問題が生じたんだ。あんたの言うようにワシが予想した期間は今年の夏までだったからな。逆に言えば何としてでも夏までは耐えんにゃならんかったということだ。だが、あの女があげん早う小細工を弄するとは思わんかった。今回のことはまだ始まったばかりだったからな。」
    「ベルトでもしていなければ少しは怪しまれなかったんじゃないですか。」
    高田現蔵がゆっくりと首を振った。枯れ木のような手が息子の頭を優しく撫でた。
    「息子は車椅子に慣れとらん。睡眠薬を飲ませたといっても少しの間だ。耐性ができて暴れでもしたら大怪我をしとったかもしれん。服はどうにか一緒に使っとったもんでな。」
     居間を覗いた。箪笥に多くの服が見えた。だが彼の体格に合う服は見当たらなかった。靴も服も、高田現蔵は自身に投資したことが全くないということだった。
    「睡眠薬もそれで多かったんですね。息子さんのために。」
    高田現蔵が短く頷いた。
    「家内は流産以降、うつ病を患うてきた。回復と悪化を繰り返して数年前からは眠ることさえまともにでけん地境に至った。その度に失くしただのこぼしただの。あれこれ言い訳をして処方してもろうて集めてきたんだ。......なあ、お兄さん。ワシの顔を見てくれ。いくつに見える? 六十? いや、七十はとっくに過ぎた。反面、認知症になった家内は正気でないことの方が多かったし、息子は力も強うなった。こげなもんでも飲ませんければ、ワシはどうにも、どうにも自分の家族を背負いきれんかったんだ。だから、だから......、ワシ、厚かましいが頼み一つしちゃ駄目だろうか? いや、ワシの事情をようく知っとるからこその頼みだ。お願いだ、頼む、今回だけ、今回だけ目をつぶってくれんか? ワシが狂人になれば、隣の女も悪者にならずに済むじゃないか。ワシが謝罪もして、自首もするから、今度の夏までだけ目をつぶってくれ。少しだけ、少しだけ待ってくれればええんだ。ワシは何でもするから少し、ほんの少しだけ......。」
     淡い嗚咽が伝わってきた。遺憾ながらそれは私がどうこうできる領域の問題ではなかったが。
    「いらっしゃいますか。」
     折よくドアの外からノックの音が聞こえた。犯人は七十を超えた老人で逃走の恐れがない。家の中に縛り付けておける。だからサイレンは鳴らさないでくれ。強引な要求に警察が応じてくれたようだ。ドアの外にサイレンの音はなかった。私は玄関を開けて警察を入れた。
    「私が通報者です。」
     一人、二人と入ってくる屈強な警察官たちを見て、高田現蔵の息子がすぐに泣き出した。もう戻れないということを知っていたのだろうか。高田現蔵も私にこれ以上いかなる請いもかけなかった。ただ彼の細く鈍い両手が、怯えた息子を抱きしめるだけだった。まるで一つの重くも巨大な世界を抱きしめるかのように、堅固でありながら、愛おしげに。
     結婚は不幸であり、家族は重荷だ。さあ、私には分からない。結婚生活が不幸へと向かう道であり、家族が重荷であるだけなら、高田現蔵と斉藤昌子、この二人が悪人という汚名を背負う覚悟で犠牲を買って出る理由があっただろうか。
     幾重にも重なる警察官たちの質問の洗礼にも、私の神経を逆なでするのは家の内外から広がってくる猫たちの鳴き声だけだった。
     時間が流れ、裁判が開かれた。裁判所では高田現蔵一家の事情を鑑みて非公開裁判を許可した。検視と尋問、裁判に至るまで多くの検証過程があったが、私の推理から大きく外れた部分はなかった。
     ただ私には、まだ解決されていない疑問が一つ残っていた。高田現蔵の妻、高田文子。彼女の死は果たして他殺だったのだろうか、それとも自殺だったのだろうか。
     その部分に関しては、あえて深く掘り下げなかった。無分別な悪意で誰かを破滅へ追いやるのは、一度きりで十分だからだ。
     裁判が終わり、高田現蔵は息子と共に事務所を訪ねてきた。弁護士の選任費用を出してくれたことと、生活保護を調べてくれたことに対する感謝の挨拶を兼ねてのことだった。さらには偏執症の治療を勧められた斉藤昌子との関係回復に関することまで。
     茶器を空にした高田現蔵は私に尋ねた。どうでもいい動機になぜそんなに執着したのかと。私は答えた。あの日、高田現蔵がそうしたように。
    「強いて言うなら、そうですね。人が人を理解することを諦めた瞬間、悪人と大差ないものになってしまうんですよ。まあ、私の話はこれくらいにしておきましょうか。これ以上長くなっても、蛇足というものでしょうから。」


    【用語解説】

    1. ニューヨーク地下鉄の都市伝説: 深夜、二人の男が遺体を一つ、まるで生きているかのように装い、地下鉄に乗せて運んだという話。

    2. 猫鳴き症候群(ねこなきしょうこうぐん): 5番染色体の一部欠失によって発症する疾患。生後約1年までは猫の鳴き声に似た特徴的な泣き声を発し、発達遅延や精神遅滞などが特徴として見られる。生後1年以内の死亡率が90%に達するとされる。

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    RS

     
     
    スローペースで、じっくりと楽しめるミステリー小説を綴っています。訪問していただき、ありがとうございます。 現在、note創作大賞2026のミステリー部門に『猫は重くなかった』を応募(投稿)しています!ぜひ読んでみてください!

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