
『斜め論』を読んだら私とBUMPのことを誰かに伝えたくなった
松本卓也著『斜め論 空間の病理学』(筑摩書房、2025年)を読んだ。
最初は「斜め論って、何がどう斜めなんだ?」と思ったくらいで、ほとんど中も確認せず書店を後にした。それでもなんとなく気にはなっていたので、「紀伊國屋じんぶん大賞」のリーフレットを持ち帰って、大賞を受賞しているらしいその本の書評を読んだ。
「統合失調症」
書評にあったその文字に固まった。私の人生でこれほど引力を持つ言葉は多くない。結果的にこの本を読んで確信を得たことだけれど、私は統合失調症のきょうだいを持つ「きょうだい児」だった。
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どうやら自分が「きょうだい児」であるらしいと知ったのは、大学4年生のときだ。同級生の留学報告会で、彼女は自分が「きょうだい児」であり、その研究をするために海を渡ったのだと言った。
きょうだい児とは、病気や障害のある兄弟姉妹を持つ子供のことで、環境により我慢を強いられやすかったり、不安を抱えやすかったりするといわれる。
それまで私は、自分の境遇にそんな名前が付けられうるとは思いもしなかった。だから留学報告会の後、思わず彼女にーーはじめて他人にーー打ち明けた。
「私もきょうだい児なんやって、さっきの発表で知った。けど、きょうだいの病気が何なんか、なんとなくしか知らんくて。」
そうなのだ。私は幼いころ偶然目にした「非定型精神病」という診断名しか知らなかった。それが何なのか、親に聞いたこともなかった。答えさせたくないと思ったのかもしれない。実際、ネットで検索しても理解できる内容ではなかった。「実態がわからない心の病気にとりあえず付ける名前」くらいの理解で、それが統合失調症に類するものだということは、『斜め論』をきっかけに知ることになったのだ。
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『斜め論』は、精神病理学におけるこれまでの言説を見直し、精神疾患との新たな向き合い方を切り拓こうとする研究書だ。専門書なのでもちろん通読するのには時間がかかったし、正直ラカンの理論などが絡んでくるところは理解しきれずに読み飛ばした箇所もある。けれど読み進めれば読み進めるほど、まるで自分の人生の答え合わせをしているかのように感じられた(※詳しい内容は、ぜひ公式の「紀伊国屋じんぶん大賞2026」受賞記念のエッセイを読んでみてほしい)。
ただ、ここで伝えたくなったのは統合失調症やきょうだい児のことじゃない。読み始めたのは統合失調症について知りたかったからだったとしても、私がこの本を最後まで読めたのは、そして人生の答え合わせのように感じたのは、「BUMP OF CHICKENの歌詞を聴いて育った」からだと思う。
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以前にも書いたことがあるけれど、私は約20年来のBUMP OF CHICKENリスナーだ。しばしば友人から、「そんなに長い間推し続けているものがあるってすごい」と言われる。でも私にとってのBUMPは、「推してきたバンド」というような性質のものではない。誰にもできない私の心の話を聴いてくれた、唯一無二の対話相手なのだ。
聴き始めたのは10歳になるかならないかの頃で、そのときはBUMPの曲だということさえ知らなかった。ただ純粋にその楽曲たちと出会い、歌詞について考えたことをノートに書き溜めるくらい、その世界に浸っていた。ボーカルの歌声を聴いているのは私なのに、いつも曲たちが私の話を聴いてくれている感覚だった。そうして育ってきたので、あるとき友人から「BUMP?飽きた!」と言い放たれたときには、それはもうとんでもないショックを受けた。「BUMPって、飽きるようなもんだったのか」、って。
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『斜め論』が『斜め論』たる所以は、精神を空間的にとらえたとき、垂直と水平のどちらかではなく、その間で均衡のとれた状態ーー斜めーーを目指そうとするところにある。
じゃあまず精神空間の垂直と水平というのはどう理解したらいいんだ、というのはもちろん『斜め論』の冒頭で説明されている。曰く、私たちは「心」を垂直方向で考えることに慣れきっているーー理想を「掲げ」て「高み」を目指す、意識の「高い」人に見「下された」、「落ち」こんで自分を見つめ直すーー精神や意識というものを表現するとき、決まって使われるのは垂直方向での空間認識だ。
近代精神医学や精神分析の分野でも、「心」は高さや深さとの関係から捉えられた。でもそうして行われた研究が、実際の精神疾患の治療に役立てられたかというとそうでもなかったらしい。垂直方向で「心」を捉え、医者から患者へーーこの構造もまた垂直的であるーー治療を施すということには限界があった。そうして20世紀末以降の臨床現場で生まれ、実践されるようになったのが水平方向の捉え方だという。
正直いって私は、垂直方向の捉え方はすんなり受け入れられたのだけど、水平方向の捉え方はなかなかイメージできずにいた。『斜め論』の「はじめに」では「水平的な関係から生じる治癒を目指すもの」として、患者同士が集う自助グループや居場所型デイケアなどが挙げられている(8頁)。たしかに「医者—患者」の関係が垂直的で、「患者—患者」の関係が水平的だというのは綺麗な対比でわかりやすいけど、一個人の「心」のなかの水平ってどんなだ?と。
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そんな疑問を持ちながら、『斜め論』第一章を読み進めた。第一章では『シュレーバー回想録』とともに、精神病理学者ビンスワンガーの「人間学的均衡」論が紹介される。『斜め論』の土台ともいえる理論だ。
ビンスワンガーによれば、私たちが生きる空間には、「父であるとはどういうことか?」「神の似姿である人間の理想像とは何か?」といった、自らを高みへと導くような問題提起とその自主的解決ないし決断を目指す垂直方向と、世界の各地を見て回り視野を広げていくような水平方向というふたつの方向があり、通常ではこのふたつが「人間学的均衡(anthropologische Proportion)」と呼ばれるほどよいバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返しているのだという。
ビンスワンガーにとって統合失調症の発病とは、この「人間学的均衡」における拡大が、垂直方向に行きすぎた先の「墜落」ということらしい。『斜め論』ではこの考え方を、「垂直方向における「思い上がり」」と表現している。この表現を初めて目にした私の頭の中では、ある曲が流れて止まらなくなった。「ハンマーソングと痛みの塔」という、私がまだBUMPをBUMPだと知らなかった時代に覚えて歌っていた曲だ。
どんどん強くもっと強く 唄声響く痛みの塔
そのてっぺんにしがみついて
震えてるのはどちら様
捨てたくても捨てられなくて 小さな痛み溜まってた
そいつをずっとしまってきた 一個目の箱満たされた
別に今更辛くもないけど 誰かが見てくれたらな
これだけあれば許されないかな 少し優しくされるくらい
物語調になっている歌詞中の主人公は、心の痛みをしまった箱を積み上げ、「痛みの塔」をつくる。どんどん高くなっていく塔の上に鎮座する主人公は、皆から見上げられて気分を良くするが、そのうち誰も見えない高さまでくるとどうしようもない恐怖に襲われる。すると聞こえてきたのは、「アンタと話をさせてくれ」と塔の箱をだるま落としにしていくハンマーソングだった。
お集まりの皆様方 これは私の痛みです
あなた方の慰めなど 届かぬ程の高さに居ます
きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た
〔中略〕
聴こえるのは風の音だけ 千個目の箱積み上げた
下を見たら目眩がした 掛けた梯子飛ばされた
そして本当に寂しくなった 誰にも見えてないようだ
声も出ない程怖くなった ふいに聴こえたハンマーソング
下から順にダルマ落とし 誰かが歌うハンマーソング
皆アンタと話したいんだ 同じ高さまで降りてきて
私は頭の中に流れるこの曲とともに、かつて自分が「きょうだい児」だとは知らなかったときのーーこの曲に私の話を聴いてもらっていたときのーー心の動きを思い出した。そうしてようやくイメージができた。「心の水平って、ハンマーソングが聞こえてくるってことか!」、と。
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私が熱心にこの曲を聴き始めた頃、一番のお気に入りの歌詞は「孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た」だった。私は「痛みの箱」を積み上げていくことにこそ共感していて、それは「私の痛みを誰もわかってくれないし、見ようともしてくれない」という思いに輪郭をあたえ、肯定してくれるものだったからだ。言い換えればこの曲は、前半では「垂直方向における「思い上がり」」を手伝ってくれる。そうして梯子をかけてのぼらせた上で、「それより先は地獄だぞ」と脅し、「降りてこい」と語りかけるのだ。でも私は、当時何度もこの曲を最後まで聴いていたはずなのに、「ハンマーソング」に救いを感じた記憶が全くない。
たぶん、心が垂直運動をして「思い上がって」いる最中は、周りの声などあったとしても聴こえない。そういうときに一番怖いのは、「わかるよ、あんただけじゃないよ」と言われることだからだ。「痛みの箱」の中身を見られて、「痛かったね」とわかった気で言われるなんて、自分の痛みをなかったことにされるのと同義だった。だからこそ当時の私は、この曲の「痛みの塔」が高くなっていく様に夢中になって、「孤独の神」に選ばれることの方に救いを感じた。
でもふとしたとき、急にこの曲をメタ的に聴けるようになる。「思い上がって」いる最中は、すっかり物語の主人公になりきって箱を積み上げていたのに、ある一定の高さまで来ると、俯瞰的な、この物語の読者の視点を取り戻す。そしてその瞬間、この「ハンマーソングと痛みの塔」という曲そのものが、自分にとっての「ハンマーソング」になる。「ハンマーソング」が聞こえてくる。「痛みそのものを見せたくなくても、痛いってことを見ようとしてくれる人がいるのは忘れんなよ」、と。
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ここまで書いていて気づいたけれど、ここで私が「ハンマーソングが聞こえてくる」と理解したのは、「心」の水平というよりもむしろ「斜め」の方だったかもしれない。
痛みの箱の中身を他人に見せることが「水平」で、見せられるうちは心は危機に瀕していないし、「ハンマーソング」も必要ない。一方で「垂直」は、痛みの箱の存在に気づいてほしいだけで、中身を見せたいわけじゃない。最初のうちはその違いが自分でもわからない。「わかってほしいけどわかってほしくない」と思うからただ箱を積み上げる。そうして他人から向けられる自分への眼差しさえも認知できなくなったとき、心は「墜落」の危機に陥る——「わかってほしかったはずなのに、誰にも見えてない」。
その危機に「斜め」に切り込む救いの手が、ただただ箱の存在だけを認め、蓋を無理に開けさせようとはしない、他人の眼差しや声なのではないか。私にとってBUMP OF CHICKENの音楽は、ずっとそんな存在だった。箱を積み上げるのを手伝ってはくれるけど、決して中身を説明させようとはしない(だって聴いているのは私の方だから)。積み上げすぎたら、ときには優しく「見てくれてる人もいるんじゃねえの」と諭してくれ、ときには「自分だけが辛いと思って悲劇のヒロインぶってんじゃねえぞ」とぶん殴ってくれる。そんな風にしてBUMPの楽曲たちは、私の精神的均衡をずっと守ってくれていた。
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『斜め論』を読む前、私はなんとなく、「前みたいにBUMPの曲を聴けなくなった」と思っていた。あの頃のように歌詞の世界に入り込めなくなった気がしていて、それが何故なのか、わかるようなわからないような、もやもやした気分だった。でも『斜め論』や、『斜め論』をきっかけに読んだ他の本たちではっきりしてきた。今の私は「聴けなくなった」んじゃなくて、「聴いてほしい気持ち」がなくなったのだ。そしてそれはきっと、少し寂しいような気がするとしても、メンタルヘルス的には望ましい状態なのだ。
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私がとにかくここで伝えたかったのは、この読書体験で得られた驚きと感動だ。『斜め論』を読んで、心の空間的捉え方を理解しようとしたら、BUMPの曲がそれを映像として見せてくれた。するとそうして理解した『斜め論』が、私とBUMPの関係性を図案化して見せてくれた。その相互作用があまりにも美しくて、私は一度本を閉じ、ため息をつきながら天を仰いでしまったのだ。
小説や漫画でなく人文書で、ここまで感情を揺すぶられ涙することがあるのかという驚きと、BUMPという存在に対する、自分なりの解釈を持てたことの喜び。『斜め論』での読書体験は、私にとって文字通りこれまでの人生の答え合わせのようだった。
BUMPに限らず、誰にも話せない気持ちを聴く対話相手になってくれるのが歌詞で、それに大げさじゃなく救われてきた人はきっとたくさんいると思う。『斜め論』を読んでいて一番に浮かんだのは「ハンマーソングと痛みの塔」だったけれど、読書中に浮かんだ曲は他にもたくさんある。その曲たちとそれを想起させた『斜め論』での内容に関しても、またどこかで書きたい。
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最後に、ここまで読んでくださったのは、精神疾患かBUMP OF CHICKENのどちらかに興味がある人がほとんどじゃないかと思う。どちらの人にももちろん『斜め論』は読んでほしいのだけど、もう一つおすすめしたいBUMPのアルバム『orbital period』の、ブックレット(歌詞絵本)のリンクを置いておく。
