見出し画像

会社では誰も教えてくれなかった。だから夜、職人の家へ通った|町工場経営録 #02

第1話で、私は「ミシン一台と机一台で会社を始めた」と書いた。

では、そのミシンを使う技術を、私はどこで身につけたのか。

会社で教えてもらった――と言いたいところだが、実は違う。

私にバッグの作り方を教えてくれたのは、会社ではなかった。

昼間の仕事が終わったあと、夜な夜な通った職人たちの仕事場だった。


「生産管理」といっても、最初は使い走りだった

大学を中退した私が最初に就職したのは、東京・東神田にあったバッグメーカー、株式会社ヌーボコスゲだった。

当時としては業界でも有力な会社で、有名ブランドや大手企業の仕事も手掛けていた。

当然、私はバッグについて何も知らない。

配属されたのは生産関係の仕事だった。

「生産管理」といえば聞こえはいいが、入社したばかりの私がやっていたのは、今で言えば外注先を回るルート係に近い。

材料を車に積む。

職人の家へ届ける。

出来上がった製品を引き取る。

それをまた会社へ持ち帰る。

加工所は、越谷、岩槻、墨田区、江戸川区など広範囲に点在していた。

毎日、車でそれらを回った。

ところが、肝心のバッグの作り方は誰も教えてくれない。

上司に聞いても、細かなところまでは教えてもらえない。

私は次第に疑問を持つようになった。

「これを何年続けても、俺はバッグを作れるようにならないんじゃないか?」


教えてくれないなら、自分で覚えるしかない

会社には、試作や失敗作、使わなくなったバッグなどもあった。

私はそれを分解した。

縫い目をほどいてみる。

裏返してみる。

芯材がどこに入っているのか。

表地と裏地はどう組み合わされているのか。

ファスナーはどの段階で付けるのか。

なぜ、ここを先に縫うのか。

完成品を眺めているだけでは分からないことが、壊してみると少しずつ見えてきた。

それでも分からないことはたくさんある。

そこで私は、外注先を回る時間を変えることにした。

職人のところへ、なるべく夜に行くようにしたのである。

材料を置いて「お願いします」と帰るのではなく、

「何か手伝わせてください」

と工場に残った。

もちろん残業代など出ない。

会社から命令されたわけでもない。

ただ、覚えたかった。


夜の職人工場が、私の学校になった

そんな外注先の一軒が、当時住んでいた実家の近く、葛飾区にあった。

そこの職人さんは当時40代。

彼自身もメーカー勤務を経験してから独立した人だった。

若かった私をずいぶん可愛がってくれた。

私は仕事が終わると、ほとんど毎日のようにその工場へ行った。

裁断された材料が、どの順番で組み上がっていくのか。

ミシンをどう扱うのか。

縫う前に何を考えるのか。

バッグは平面の材料から、どうやって立体になっていくのか。

横で見ているだけではない。

自分でも手を動かした。

失敗する。

また教えてもらう。

もう一度やる。

今思えば、あの工場が私にとっての学校だったのだと思う。


教わったのは、バッグの作り方だけではなかった

仕事が終わると、その職人さんや仲間たちと飲みに行くことも多かった。

場所は立石や新小岩。

洒落た店ではない。

立ち飲み屋だったり、年季の入ったスナックだったりした。

そこで職人たちは酒を飲みながら、いろいろな話をした。

「この仕事は、この先どうなるんだろうな」

「メーカーは勝手なことばかり言う」

「これだけやっても儲からない」

もちろん仕事の愚痴も多かった。

でも、技術の話になると皆熱かった。

どうすればきれいに仕上がるのか。

どの材料ならうまくいくのか。

どこのメーカーの仕事は難しいのか。

若かった私は、それを聞いているだけでも面白かった。

麻雀にも行った。

競馬や競艇にも誘われた。

今まで自分が知らなかった世界だった。


私は、かなり恵まれて育った

私の両親は商売をしていた。

子供の頃から生活に困った記憶はほとんどない。

買い物といえば百貨店。

家族で外食するときにはホテルへ行くことも珍しくなかった。

だから、職人さんたちと過ごした時間は、若い私にとってかなり新鮮だった。

決められた金額だけ握って飲みに来る人。

競馬新聞を広げながら一杯やる人。

仕事の愚痴を言いながら、翌朝になればまたミシンの前に座る職人。

そこには、それまで私が知らなかった生活があった。

そして私は考えるようになった。

「自分は、この先どうやって生きていきたいんだろう」

技術は身につけたい。

職人の仕事も好きだ。

でも、ただ仕事をこなして一日が終わるだけでは嫌だった。

技術を身につけ、その技術で何かを生み出し、自分自身で仕事を作れる人間になりたい。

まだ独立など具体的に考えられる段階ではなかった。

それでも、この頃から私の中に何かが芽生え始めていたのだと思う。


一台の古いミシン

ある日、その職人さんが言った。

「これ、持っていくか?」

古いSEIKOの足踏みミシンだった。

その時点ですでにかなり年季の入った機械だった。

当時はモーター付きの工業用ミシンが普及し始め、こうした古い足踏みミシンは中古で安く出回るようになっていた。

職人さんにとっては、もう必要のない古い機械だったのかもしれない。

でも、私にとっては違った。

自分のミシンだった。

家に持ち帰った。

それまで私は会社か職人の工場へ行かなければ、バッグを作る練習ができなかった。

それが、自宅でできるようになった。

仕事から帰ってもミシンを踏んだ。

分からなくなれば、また職人のところへ行った。

教えてもらい、家に帰って試した。

また失敗した。

また聞きに行った。

どんどんバッグ作りにのめり込んでいった。


技術は「教えてもらうもの」だと思っていた

あれから30年以上が経った。

今なら、あの頃の自分に一つだけ言えることがある。

技術は、誰かが丁寧に教えてくれるまで待っていても、なかなか身につかない。

本当に知りたければ、自分から現場へ入っていくしかない。

分解してみる。

触ってみる。

失敗する。

分からなければ聞く。

そして、またやってみる。

今ならインターネットがある。

YouTubeもある。

AIに聞けば、かなりのことまで教えてくれる。

30年前とは比べものにならないほど、知識を得ることは簡単になった。

それでも最後に自分のものになるのは、自分の手を動かして得た経験なのだと思う。


ちなみに、第1話に書いた創業時の「ミシン一台」は、この古い足踏みミシンではない。

その後、同じ職人さんから別のミシンを買い受けたものだ。

ただ、私にとって最初の一台は間違いなく、この古いSEIKOの足踏みミシンだった。

あの一台がなかったら、自宅で夜な夜なバッグを作ることもなかったかもしれない。

そして、バッグ作りそのものに、ここまで夢中になることもなかったかもしれない。

振り返れば、ジェイクラフトマンの原点は、会社の会議室でも、立派な研修施設でもなかった。

葛飾の小さな職人工場と、

一台の古い足踏みミシンだった。


次回は、そんな私が「作る側」から「売る側」へ回ることになった頃の話を書いてみたい。

後に独立する私にとって、技術と同じくらい重要になる「営業」を覚え始めた時代である。

#町工場経営録

いいなと思ったら応援しよう!