『The Last of Us Part II』の真実
過去10年で最も盛んに批評されたビデオゲーム作品といえば、2020年にNaughty Dogから発売された『The Last of Us Part II』だ。
発売当初の本作への評価はまさに賛否両論で、絶賛するレビューもあれば、激しく批判するレビューもあった。中には出演者への脅迫さえ行う者もあらわれ、一口に批判と言っても、明らかに品質の低いゲームに向けられる失望以上の「憎悪」に満ちたレビューが多かった。しかも前作『The Last of Us』は満場一致で絶賛され、世界中の賞を受賞した作品だったのだ。
実は筆者にとっても、本シリーズは大変思い出深い作品である。そもそも筆者が今こうしてゲーム批評を執筆しようと試みたのは『The Last of Us』にいたく感動したからだし、「ゲームゼミ」を設立しようと試みたのも、『The Last of Us Part II』を取り巻くゲーム批評の実情に無力さを痛感したからのであり、つまり筆者自身のキャリアの節目に関わる作品なのだ。
あれから4年経過した現在、当初の論争は沈静化しつつある。さらにHBO版ドラマ「The Last of Us」がクリエイティブ・アーツ・エミー賞で8冠に輝き、さらに「Part II」を前提にした続編の発表、直近では1月19日の『The Last of Us Part II』のリマスター版発売もあり、改めて『The Last of Us Part II』とは何だったのか、冷静に思い返す人も多いと思う。
この4年のクールダウンと、その間に行われた再評価、そして筆者個人がゲームゼミで培ってきた筆力と、その間に読んだ膨大な資料と作品の研究により、今こそゲーム史上に残る怪作「The Last of Us」シリーズの真髄に迫る好機が巡ったのではないかと思う。
そこで本稿では2013年の『The Last of Us』、2020年の『The Last of Us Part II』の2作を通じ、一連のシリーズが一体何を描こうとしていたのか、その背景にあったものは何かを、筆者がおよそ10年近く考え、ゲームをプレイし、開発者たちの膨大な資料を読み込んだうえ、日本どころか海外のメディアにも掲載されないファクトの数々を提示することで、「The Last of Us」とは何だったのかという「真実」を明るみにしたい。
なお断っておくと、本稿の主な趣旨は「The Last of Us」シリーズに対して「良い」「悪い」という筆者の個人的な審美をすることではなく、あくまで本シリーズに関して、広く知られていない背景、真実、解釈について提示すること、すなわち「批評」が主な目的である。(ただそれを踏まえ、後に筆者個人の見解を示した批評を別に執筆する可能性はある)
むしろ本稿を通じ、読者諸賢がそれぞれ本シリーズで味わった体験を振りかえり、その価値を審美していただければ、この上ない幸いである。
以下、『The Last of Us』『The Last of Us Part II』、およびその参照となった一部の作品に関するネタバレを含む。
そもそも「The Last of Us」とは何か
4年ぶりということもあり、改めて作品の簡単な略歴について説明しよう。以下の内容はシリーズのネタバレを含むため、内容を熟知しているファンもしくは全く知らない方は読み飛ばして構わない。
「The Last of Us」シリーズは、2013年にPS3向けに発売された『The Last of Us』と、2020年にPS4向けに発売された『The Last of Us Part II』の2本を中心とするゲームシリーズである。どちらも人体の脳に寄生するように変異した冬虫夏草によって文明が崩壊した、ポスト・アポカリプスの北米大陸を舞台とするビデオゲームであり、そのタイトル通り2作は明確に連続した作品として構成されている。
1作目、『The Last of Us』はパンデミック発生の前夜から物語が始まる。シングルファーザーのジョエルは、愛娘のサラと二人きりで何気ない日常を謳歌していたが、ある時に冬虫夏草のパンデミックによって娘を失う。それから20年経過し、娘とともに生きがいも失ったジョエルは、秩序を失った社会で荒くれとして過ごしている。そこで偶然にも請け負った仕事が、一見どこにでもいる普通の少女、エリーを反政府組織・ファイアフライの要所まで護衛するというものだった。


目的地が近く、報酬もいいからと渋々受託したジョエルだったが、行く先々でトラブルに見舞われ受け渡し地点を点々とする。しかしそのトラブルを乗り越えるたび、最初はぎくしゃくしていたエリーとの間に絆を結んでいくジョエル。そしてようやく反政府組織までエリーを送り届けることに成功するが、護衛の本当の目的は特殊な抗体を持ったエリーを犠牲にワクチンを作るというものだった。その事実を知ったジョエルは、ファイアフライを壊滅させ、昏倒しているエリーを持ち去ってしまう。



そして全てが終わった車中、起き上がったエリーが何があったのかをジョエルに問い、そこでジョエルは「他に免疫がある候補が何人もいた」と嘘をつく。嘘を一通り聞き終えたエリーは、ジョエルに向って「誓ってよ」と言い、ジョエルが「誓うよ」と答えると、画面が暗転してエンドクレジットが流れる──。

この極めてドラマチックなプロットと、それに準じた俳優たちの演技およびモーションキャプチャー、切ないカントリーミュージックを織り交ぜたドライな演出、当初のビデオゲームとしてはいずれも画期的な表現と、それに負けず劣らずシームレスで奥深いサバイバル・シューター要素がそれぞれ組み合わさり、結果的に『The Last of Us』は2013年のあらゆるゲームアワードを総なめにするほど大絶賛を受けた。
では、この大絶賛を受けた『The Last of Us』を生み出したのは、一体だれなのだろうか。この中心的人物が、本作のディレクター、ニール・ドラッグマン(Neil Druckmann)である。
左側に立っているのがニール
実際、「The Last of Us」とはニール・ドラッグマンの個人的な作家性が全面化した作品と言い切ってしまったよいだろう。「The Last of Us」1作目、2作目でディレクターとライターを兼業し、映像版「The Last of Us」の共同監督まで務め、そもそも企画そのものがニール個人の持ち込みであることから、北米の大作ゲームとしては異例なほど個人の裁量が大きく、いわゆる「作家性の強い」ゲームであった。
そして実はここに、『The Last of Us』シリーズ最大の「誤解」を解くカギがある。つまり多くの人々が初代『The Last of Us』を「絶賛」する根拠や『The Last of Us Part II』を「批判」する根拠は、少なくとも多少の「誤解」に基づいてしまっていた。
多くの人が想像するような『The Last of Us』の「文学性」、あるいは『Ⅱ』で批判された「政治性」、何よりもニール・ドラッグマンの「作家性」といったものは、実は正しいものではない。つまり多くの人が勝手に「ニールはこういう事をゲームで言いたかったんだろう!」と絶賛したり、激高しているのは、そもそも「誤解」に基づいているからこそ作品の本質をわからなくしてしまっている。
そこで今回、世界における膨大な『The Last of Us』批評の中でも、これまで表に出なかった「決定的証拠」とも呼べる作品の根幹となるインテリジェンスを手に入れた。このインテリジェンスをもとに、本作を紐解いてくことによって、本当はニール・ドラッグマンとはどのような男で、どのような意図を作品に籠めたのかわかるようになったのだ。
そこで、以下、有料部分においては
・ニールが『The Last of Us』に籠めたメッセージに対する決定的な「証拠」
・ニールの半生と作品の相関
・『The Last of Us』における「封印されたもう一つの結末」と、そこから見える「ニールが本当に言いたかったこと」
・『The Last of Us Part II』の「衝撃的冒頭」が「予定調和」であった理由
・『The Last of Us Part II』主人公・テーマ・視点における「イスラエル・パレスチナ問題」の解釈
・『The Last of Us Part II』の「真実」
について論じている。
間違いなく、これまでの『The Last of Us』批評を覆すような、圧倒的な質・量による批評となっており、『The Last of Us』ファンはもちろんのこと知性あるゲーマーにとって必ず価値のある内容となっているはずだ。ぜひ購読を検討してみてほしい。
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