
夫を理解させるための年表を作っていた
慣らし保育が始まった頃、私は夫との出来事を年表にしようとしていた。
いつ、何があったのか。
そのとき私は何を感じたのか。
夫は何と言ったのか。
メモアプリには、そんな記録が少しずつ増えていた。
最初は何気なく書き留めただけだった。
でも気がつけば、「あのときもそうだった」「このときも同じだった」と過去を掘り返す作業になっていた。
口で伝えても伝わらない。
その場では分かったような返事をする。
でも結局、同じことの繰り返し。
夫婦カウンセリングも受けた。
喧嘩をした夜は眠れなかった。
どう伝えたら分かってもらえるんだろう。
どうしたら前に進めるんだろう。
何度も考えた。
考えても答えは出なかった。
それでも考えるのをやめられなかった。
当時の私は、本気で思っていた。
今までの出来事を全部整理して見せれば、夫も向き合うんじゃないか。
年表を突きつければ、さすがに分かるんじゃないか。
でも今振り返ると、それだけではなかった。
本当は、夫に分かってほしかった。
それは間違いない。
でもそれ以上に、
私自身が納得したかった。
私だけが覚えていることが苦しかった。
夫は忘れている。
あるいは最初から気にしていない。
でも私は覚えている。
あの日言われたことも。
あのとき感じたことも。
私だけが過去を抱えて前に進めない気がしていた。
だから書こうとしていた。
全部書き出してしまえば、もう覚えていなくていいと思えそうだったから。
年表は夫のためではなく、自分のためだった。
だけど、その作業は思った以上につらかった。
出来事を書くたびに思い出す。
思い出すたびに腹が立つ。
腹が立つたびにまた考える。
前に進むために始めたはずなのに、過去の中をぐるぐる歩き回っているようだった。
慣らし保育が始まり、久しぶりにまとまったひとり時間ができた。
本当ならやりたいことはいくらでもあった。
読みたい本もあった。
書きたいこともあった。
でも気がつくと、また夫のことを考えていた。
せっかくできた時間なのに。
夫との悩みで埋め尽くされていく。
そんなとき、ある本を読んだ。
その本には、「マイナスの感情で損しない」という言葉が書かれていた。
その言葉を読んだとき、不意に思った。
年表を書いた先に何があるんだろう。
もし夫の反応が変わらなかったら。
私はまた怒るんだろうか。
また傷つくんだろうか。
また時間を使うんだろうか。
そう考えたとき、急に力が抜けた。
ああ。
もうやめてもいいのかもしれない。
年表を作るのをやめようと思った。
不思議なことに、悔しさはあまりなかった。
それよりも解放感の方が大きかった。
もうあの出来事を何度も掘り返さなくていい。
もう証拠集めみたいなことをしなくていい。
そう思った。
その後も夫との衝突がなくなったわけではない。
今でもイライラすることはある。
価値観が合わないと思うこともある。
でも以前のように、何日も引きずることは減った。
どうしたら分かってもらえるんだろう。
どうしたら変わってくれるんだろう。
そんなことを考え続ける時間も減った。
夫が変わったわけではない。
変わったのは私の方だった。
この記事を書いている今も、あれだけ作ろうとしていた年表には手を付けていない。
たぶん、もう完成することはないと思う。
でもそれでいい。
あの年表は、夫を理解させるためのものだと思っていた。
本当は、私自身が過去を手放すためのものだったのだから。
当時の私は、そのことに気づいていなかった。
気づかせてくれたのは、慣らし保育中にたまたま手に取った一冊の本だった。
タイトルに惹かれて読み始めただけだったのに、不思議なくらい肩の力が抜けた。
もしあのとき読んでいなかったら、私は今も年表を書き続けていたかもしれない。
たった一冊の本との出会いが、どうしてそこまで私の考え方を変えたのか。
『反応しない練習』との出会いについては、また別の記事で書いてみたいと思う。